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猫が鍵盤を歩くと良い響きに

「肩の力を抜いて!」というアドバイスは様々な活動の中で誰しも一度ならず受けているだろう。ゴルフや野球などのスポーツは言うまでもなく、コンピューターやワープロ等の操作でも肩に力が入っていると動きは鈍くなるし目も疲れやすくなり、思考力 も低下する。営業面でも表情は固くなり行動もセカセカとして 対人関係もギクシャクしてくる。


どうしてそうなるのか? 肩に力が入ると肩が上がる。肩が上がると肋骨が持ち上げられて胸郭が狭くなり息が浅くなり、のびやかに動くことができないし、疲労もすぐにやってくる。


私はもともと音楽家なので 楽器演奏の面から述べると、「肩の力を抜く」ことの大切さはどんなベテランであって も練習の毎に、演奏の毎に絶えず頭の中に入れておかねばなら ない一大ポイントなのである。


例えばピアノの鍵を一つ叩くとしよう。その響きで素人かピ アニストかが判別できる。ピアニストの音は体の重みから出るので柔らかくて幅がある。素人は腕の力や指の力で音を出すので固くて深みのない響きになる。即ち素人は肩に力を入れて奏でるのである。


猫が鍵盤の上を歩くといい響きがすると言われているが、私はまだ猫にピアノを奏かせたことは ないのでわからない。でも猫はピアノを奏くという意識がないので、力みなく歩くだろうから、本当にいい音かもしれない。


それほどに人は何事かを行う時、肩に力が入るのである。入ってはいけないと頭ではわかってい ながら、勝手に入ってしまうのである。何故か? それは自分ではコントロールできない無意識の精神的な要因によって起こるからである。


この場合の精神的な要因は身構えである。さあ、やるぞ、と気負ったり、やらなくっちゃ、と思 うだけで肩が緊張してしまうのである。緊張は焦りの心を生む。するとまず肩甲骨の中央部にしこりができる。


先日、ある会社の部長さんが健康体操をしたいと私の所に見えた。体ほぐしの際、うつ伏せに寝てもらって、肩甲骨の中央部に私が親指を置いたとたん、「痛い!」とおっしゃる。ボディートークの体ほぐしは指圧ではないので、本当にちょっと触れるという感じなのだが、そ れでも飛び上がるように痛みが走る、という症状である。


これは典型的な焦りのしこりである。でも触られなければ痛みは感じないのである。長年にわ たって仕事の焦りから肩に力が入りっぱなしになり、力みが慢性化して筋肉が固くなってしまった ので、感覚が鈍くなっている。だから自覚症状がないのである。


その部長さんに「これは四六時中、焦っていますね」と私が言うと、「えっ、私は焦ってなんかいないですが・・・」といぶかし気だ。「あなたは仕事をする時、今やっていることそのものに気持ちを向けていますか? それとも、これが終われば次にあれを片付けて・・・、というように 先のこと、先のことへと考えを巡らせていませんか?」と聞きますと、「言われてみるとその通りです」という答えが返ってきた。


これが焦りなのである。犬や猫ならエサを食べる時は食べることに集中している。排便の時は排便の爽快感を味わっている。別のことを考えたりしない。
ところが仕事人間となると、食事の時も味わうことに集中しないで次の段取りを考えているし、トイレにしゃがみなが ら、新聞を見たり、考え事の時間だなどとうそぶいたりする。


私が高校の教師であった時に、通知簿をつけることだけは どうも苦手であった。学期末毎に生徒一人一人に何点とつけることが心の重荷となり、一枚作成する度に、ああ、あと何枚ある、と溜め息をつくものだから、遅々として仕事がはかどらなかった。

それがある日、ハッと気が付いた。今、やっていることだけに集中していれば、確実に通知簿は 一枚づつ出来上がっていく。だから何日までに、とか、あと何枚、とか考える必要はない、と。
そう考えた途端、気負いの心は消えて肩の力がストンと抜けるのを感じた。その後は苦手な通知簿つ けも楽に進むようになった