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心がしみていく暖かい息

●ただいま~ピョンちゃん

暖かな息、穏やかな声は、私達に安らぎを与えてくれます。「ただいま~」 と言うと「お帰りなさ~い」と迎えてくれる。その声に何だかホッとして一日 の疲れが取れていく感じがしますね。

幼い頃からそういう環境の中で育ってきた私は、大学生になり一人下宿を始めた時、誰もいない真っ暗なアパートに帰 るのが淋しくて、あることを思いつきました。玄関に小さな椅子を置き、そこに可愛いウサギのぬいぐるみを座らせ、玄関の灯りはつけたままにして出かけ ることにしたのです。

帰ってきてドアを開けて、ウサちゃんに「ただいま、ピ ョンちゃん」と声をかけます。その声が部屋中に響いて、それまでの冷んやりとした空気がふんわり暖かくなっていくようでした。

●「クソババ!」と叫ぶH君

暖かな息が漂っている家で育つ子どもは、すこやかに成長していきますよ」と増田先生がよく言っていらっしゃいますが、こんな話がありました。小学1年生のH君は、おばあちゃんが「お帰りなさい」と声をかけると「クソバ バ!」と大声で叫びます。

そしてランドセルを投げ捨て、着ていた服もソック スも一気に脱ぎ、天井に放りあげ、3才年下の弟にケンカをしかけて暴れ まわるという毎日でした。けれど学校ではいたって優等生です。彼のあまりの激しさに「どうにかならないんでしょうか?私にばっかり暴言を吐くんですよ」と相談されました。

彼のお母さんは、昼間は外でお仕事。子どものしつけにはかなり厳しい方だとか。「いいですねぇ~、元気が良くて。おばあちゃん には甘えていれるから、そういう行動が出来るんですよ」と私はニコニコしな がら答えて、彼の心の在り方を説明しました。

●心にも便秘があります。

便秘になると苦しいものです。大人でも家の外で緊張が続くと、なかなかウンコが出にくくなりますね。でも家に帰るとウンコがようやく出た。こんな経験は誰しもお持ちのはずです。

H君は学校ではイヤなことが あっても決して顔には出さない。先生の言うこともよく聞けて、しっかり自己 コントロールできる【おりこうちゃん》なのです。だからこそ家に帰ってホッとすると、今まで学校で我慢し、押し込めていた様々な感情が思いっきり発散し始めるのです。

これは《心や体のバランスを保つ》ための大切な行動です。 それを理解せずにむやみに叱りつけたり注意しすぎると、自分の欲求、感情の捌け口がなくなり、《心の便秘》状態になるのです。

●心も体もホッと安心できる場

幼児期、少年期、そして思春期までは、子どもは自由自在に思いっきり全身を動かして遊ぶ時間や空間が必要です。そのことで心も体も頭もすこやかに成 長していくのです。

特に男の子が一日中じっと同じ姿勢で机の前に座ってお勉 強することは、不健康きわまりない状態なのです。「H君は幸せですね。おばあちゃんがいて下さって。心も体も裸になれるところがあるんですもの。ご心配なさらなくても、彼はまともに成長をしていますよ」「ええ、学校でも母親の前でも、ずいぶん我慢しているのでしょうね」と、おばあちゃんの表情が優 しく変わっていかれました。

それからは彼の暴言が激しくなってくると、「ああ、今日は学校で何かあったに違いない」と考えられるようになられ、「今日のご飯は何が良いかな?あの子の好きなものにしようかね~」などと、おじいちゃんも一緒になって色々工夫されていくことが楽しみになられたようです。

●心にしみる暖かい息

核家族の共働きの両親に育てられている子ども達は、こういうわけにはいきません。でも工夫することによって《暖かい息》の場は、いくらでも創ってい けるような気がします。私の母も小学校の先生でしたので、幼い頃は早朝に出勤し、帰宅は夜遅くという生活でした。

それでも朝起きて筆箱を開けると、鉛筆がきれいに削って、きちんと並べて入れてありました。それは唯一《母は私 のことをいつもちゃんと見つめていてくれているんだという証》でした。とても嬉しくて、その世界一の鉛筆を握りしめ、私は勉強することが大好きな子どもへと育っていきました。

忙しい中にもそういう工夫をよくしてくれた母へ感 謝しています。みなさんの深く心にしみていく《暖かい息》づくりのお話も、 是非お聞きしたいと思っています。お知らせをお待ちしています。




後天的内感能力と突発事故での効果

自分で自分の身を守る。これは生きとし生けるものの鉄則である。自分の身を守るためには、まず体の異常をいち早くキャッチできることが必要で、この能力を私は「内感能力」と呼んでいる。誰しもが生まれつき有している先天的内感能力は、体が固くなる程に鈍ってくる。

今、話題の慢性疲労症候群なども、内感能力がかなり低下している人に見られるようだ。心や体を固くして仕事をやり続け、もはや体を休めてみても固さがほぐれない投階に達しているのだ。

後天的内感能力とは、体の構造やシステムを知覚できる能力である。
私の娘が中学生のときに、学校で背中がキリキリと痛んだ。それで保健室へ行って「胸椎4番の左側が痛いんです」と先生に訴えた。「えっ?」と言ったきり先生は絶句だったそうだ。

胸椎4番左とは、左の肩甲骨と背骨の間の中央あたりだが、ここが痛む時はたいてい言いたいことをグッと自ら押さえ込んでいる場合である。保健の先生は知識として背骨の勉強はしていても、内感として自分の背骨の何番がどこにどのようにあるかを知覚する訓練はしていないからビックリされたわけだ。

後天的内感能力が突発事故に際してどのような効力を発揮するか、ひとつの実例を紹介しよう。毎週通っているスイミングスクールで、ある日、思わぬアクシデントに あってしまった。プールの入口は大きなガラスの扉である。構造的には保温のために二重の扉になっている。いつもは二番目の扉が開き放しになっているの で、N夫人はまさかガラスの扉が二つあるとは気が付かなかった。ところが、その日は運悪く閉めてあった。

N夫人はいつものように一番目の扉を開いて勢いよくプール室に入ったつもりが、顔から思いっきり全身、ガラスの扉にぶつけてしまったのだ。鼻や口から血が流れ始めたけれど、N夫人は腰椎に気持ち悪さを感じて、その場で「胴ぶるい」をした。

慌ててとんで来た周りの人も、一生懸命胴ぶるいをしているN夫人を見て「何しているの?」と不思議そうに尋ねた。 顔が大きく腫れたので医者に診てもらうと、鼻の骨が折れ、口の中もかなり切れていた。こんなに激しくぶつかったら必ず腰の骨が ズレているから、ということでレントゲン検査 をしたが異常が見つからない。「変だな」と医者は首をかしげていたそうだ。あの、一瞬の胴ぶるいで腰椎のズレが「あるべき所に」戻ったのだ。

ところで、ここでいう体の柔らかさとは、脚がよく開くだとか、上体を前にかがめて両手が床に着くだとかの 問題ではない。体の中身がつきたてのおモチのように柔 らかくて弾力があることをいうのである。

スポーツでは脚を開くことも必要だろうが、 健康を維持するためなら、脚は歩く程度に開けば充分である。その証拠に犬や猫は開脚運動をしていない。
肉脚 体の柔らかさを得るには自然体運動をすればいい。自然体運動とは発声と共に体を様々に揺する動きだ。

リラックスの中で体を様々に揺すると、体の内部の「あるべきものが、あるべき所に、あるべき様に、在る」という状態になる。そうすると体はおのずと健康になるように神さまは設計されているのである。

人間は他の動物よりも心や体をはるかに複雑に使って日常生活を行っているから、その分シコリやユガミも生じやすい。内感能力を研ぎ澄まして、体に異常を感じれば、すぐさま自然体運動を行って正しい状態に戻す。そうすればいつだってはつらつと活動で きるのだ。しかもこの時の自然体運動はせいぜい数秒のことなのだ。さらに人間にとって有り難いことは、後天的内感能力を開発できるということである。




熱い思いは、熱い息になると伝わる

*あなたならできるよ

ソルトレイクの青い空はどこまでも拡がり澄みきっていました。モルモン教のメッカ、アメリカユタ州にある街、ソルトレイク。私は30代の頃、ひと夏をそこでダンスのワークショップを受けながら過ごしました。ワークショップ受講の登録の日。「先生、私は重症心身障害者の方たちと接した経験もありま せんし、私の英語も充分でありません。ですからハンディキャップの人達のためのダンスのクラスを見学だけの参加にさせていただけませんか?」とお願いに行きました。

クラスを担当される先生は、見るからに穏やかな優しい表情の 50代の女性(K先生)でした。「いいですよ」という答えが返ってくると思っていました。
けれど先生の表情がキュッと厳しいものになり、一言「No!!」と強い口 調で言われたのです。そして、こう付け加えられました。

「アキコ、よく自分を見てごらんなさい。あなたは彼らと同じなのですよ。彼らはほとんど動けな いし、ほとんど言葉も喋れません。でも言葉が充分に喋れないあなただからこそ、誰よりも彼らの言葉が分かるのです。心と心で話せるのです。自信を持って中へ入りなさい。見学だけの参加は許しません。きっとあなたならできますよ。そして彼らがあなたを助けてくれるはずです」と、励ますように私を抱きしめて下さった時、先生の右手はマヒしていて動かない手であることを知ったのです。

*こんなに心が伝わるなんて!

この時の先生の言葉を忘れることはありません。大切な事をK先生は教えて下さったのです。先生のおかげで一ヵ月半の間、毎週専用バスに揺ら れ、車椅子に乗って施設から通ってくる彼らと一緒に学ぶことができました。 彼らは私を大変大事にしてくれました。私にできないことがあると、すぐに私を助けようと、動かぬ手を動かしながら、言葉にならない声を出しながらアドバイスをしてくれました。まともな英語での会話ではないのに、何の異和感もなく、まるで日本語で話しているかのように心が通い合うのです、不思議な感覚でした。

そしてセミナーが終わる2日前の夜、ソルトレイクの街の人を招待してのダンスコンサートが開かれたのです。『ハンディキャップの人達とのダ ンス』がラストプログラムとして置かれていました。

もちろん彼らは車椅子に乗ったままです。でも充分に動かすことのできない 腕、手、足、首、頭で表現されるその中に込められた熱い想いは息となって体中からほとばしり、自由に動ける私達ダンサーの動きをはるかに越えて、より自由に無限に雄大に拡がって、見ている人達の、そして共に踊りあっている仲間達を感動させたのです。

その中の一人として、踊れていることが嬉しくて・・・。 私だけでなく、出演者も観客もスタッフも全員が感動の波にあふれたコンサートとして終わりました。今まで経験したことのない、美しく厳かな踊りでした。

私だけでなく、誰しも熱い想いが息で伝わる体験はお持ちだと思いますが、私もまた嬉しいエピソードがあります。それは、次回にお話ししたいと思います。




身体とおしゃべりするために

“身体とおしゃべりする”ためには、「体の声」を聞く能力が必要である。痛みだとか不安感だとか、はたまた喜びの予感だとかの、体の内部から訴えてくる様々な感覚を意識のレベルで捉えるのである。これを私は「内感能力」 と呼んでいる。
内感能力には先天的なものと後天的なものとがある。先天的なものは誰しも持っている能力であって、その最たるものは乳幼児に見られる。

赤ちゃんや子供の体はもともと柔らかいので、ほんの微細な刺激や異常感にも敏感に反応する。彼らの口が辛 い食物や熱い飲み物などを受付けないのは、舌の感覚が鋭いからだ。

大人になると辛子明太子やキムチなども食べ、また飲酒喫煙が できるのも舌が鈍感になっているからである。
鈍くなった分、大人は外界に対して強く逞しくなって いるのだから、必ずしも悲観することはないが、先天的内感能力の衰えについて最近、ショックを受ける出来事を体験した。

小学生八十名ほどを指導している最中だった。突然子供たちが一斉に「耳が痛い!」、 と騒ぎだした。両手で耳を押さえながら口々に「キーンときつい音がする」と言うが、私の耳には何もなかったし、付添いのお母さん達も「別に聞こえませんね」と平気な顔をしている。

「スピーカーの音みたい」と言う子供がいて、念のために電源を切ってみ た。すると、子供たちが一様に「聞こえない、よかった」と言ってホッとしている。
スピーカーから高音の「ピーッ」という電気音が流れ出て、子供たちの耳を突き刺したのだが、大人の耳にはもうその高音をキャッチすることができなくなっているという訳だ。

私は音楽家だから耳をとても大事にしているし、また少なからず自信を持っていたのだが、子供の繊細な感覚にはかなわない。二万ヘルツに近い高音には大人の鼓膜はもう振動しなくなっているのだ。

このように子供の感覚は鋭いが、「背骨の揺れ」となるとちょっと様子が違ってくる。 子供たちに「何番目の背骨が動きにくい?」と聞いても「エエーッ?」と目を丸くして顔を見合わせている。大人にだって「そんなことわかるの?」という世界かもしれない が、訓練によって知覚できるようになる。即ち後天的な内感能力は学習によって可能となる。

背骨はご存知のように首の部分を頸椎と言い、7個の骨で頭を支えている。上から一 番、二番と続き、肩の上端が頸椎7番である。頭をストンと前へ落としてそのあたりを手で触れてみると、大きな骨がボコッと出ている。その骨である。頸椎七番の周辺の筋肉が固くなるのが「借金のしこり」であることは前回の連載で述べた。

胸の部分の背骨は胸椎と言い、上から十二個つながっている。肋骨がくっ付いている骨である。四ツン這いになって猫の喧嘩のように背中をグンと上にあげると、一番高くな るのが胸椎の八番である。胸椎八番から胃を動かす神経が出ているから、この周辺を固くしている人は胃も固くなっている。いわゆる腹が立 つという状態である。

腰の骨は五個である。背骨の中では一番太い部分 だが、動作の要めなので、それだけに重力の負荷も大 きく、ちょっと無理をするとズレる。ズレると腰痛が 起こる。レントゲンでわからないぐらいの微妙なズレ でも、腰痛はキチンと起こる。

体を柔らかくし、背骨の何たるかを体で知れば、ちょっと体を揺すってみることで、何番のどのあたりが動きにくいかを判断することができる。判断ができれば、その個所に意識を集中して背骨をユラユラと揺らしてやれば、しこりはとれる。しこりもこの段階で小マメにほぐせば腰痛にもならないし、肩コリもない。

「内感能力を高めることが、生活の中でどれほ ど大切なことであるか、次回にその実例を述べ よう。




手が語るこころ

●手のつなぎ方に表れる心

街を行くと、高齢のご夫婦が手をつなぎ、お互いをいたわるように寄り添い ながら歩いていらっしゃる光景に出逢うことがあります。いいなあー。気持ちもほっこりします。
人類は手を使うことによって脳を発達させ、知恵を膨らませてきました。そ して私たちの手には、いろいろな素敵な力が備わっています。

「ハイ、二人で向かい合い、両手をつないでみましょう」 「では、そのまま手を離さないで、つないだ手を見て下さい」 「手のひらを上から置いている人は、『私のことはどうにでもして!あなたにお任せ! という甘えタイプの人』」 「手のひらを下にして相手を支えている人は『あなたのことは私に任せてと!』というお世話タイプの人です」 と説明すると、一斉に会場からドッと笑い声。これはボディートークの人間関係法の代表的なプログラム「手つなぎ」です。

無意識の中で見事にホイッと出 てしまった自分の心に、思わず笑いたくなります。意識はしていないけれど、 手をつなぐと相手に心が分かる。これは初めて会った人と握手をした時、「あ、 この人は強引だな」とか、「顔は恐そうだけどやさしい人だな」とか、感じることからも言えます。無意識に相手の心が手から伝わっているのですね。

1 二人向かい合って立ちます(少し両足を開いて)

2  まっすぐに手をのばし、両手をつなぎます。

3  水上スキーをしているようなフォームで、自分の体重を自分の背中のほうへかけていきます。(互いに引っ張り合う状態になります)

4  手を離すと危険ですから、しっかりギュッとつないでおきます。

5  バランスが取れてきたら、つないだ手を少しずつゆるめていき、ユラユラと 気持ちよく揺れて楽しみます。(ハンモックにもたれたようなお昼寝気分を味わえます)

6 お昼寝気分をしばらく楽しんだ後、「サァ、いじわる手つなぎをしよう」と言いながら、「イ チ、ニイのギュッ!」とお互いにつない だ手を力いっぱいにギュッと握りしめます。 ゆるんでいた体が突然固められ、「イヤダ!」「ヤメテ!」という不快感が体中に走ります。

7 すぐに手をゆるめ、手を離します。 「アー」と言いながら体を揺すったり、胴ぶるいをしたりして不快感を取り除きます。 「もうイヤなつなぎ方はしないからね」と体に言いながら、この状態から1から5までをもう一度やってみます。

最初は安全のために手をギュッと強くつなぐことは不快ではないのに、慣れてきて手をゆるめても最小限の力でお互いを支えられる心地良さを知った後では、強い力でギュッと握りしめられることが、今度は不快感となってしまったのです。私たちの体は、危険な時、不安な時はギュッと体を固くして自分の身を守ろうとします。しかし安全で安心な時は、ホッとして心も体もゆるみ、やわらかくなっています。

一般に赤ちゃんや病気の人の体は、繊細でやわらかです。また外から見ただ けでは、その人の体の中身がやわらかいか固いかは分かりにくいものです。ですからそういう人達の手を、突然ギュッと強く握りしめたり、ギュッと抱っこしたり、背中を強くたたいたりすると、相手の人は痛みを感じたり、不快に感じることもあるのです。

ですのでボディートークでは体に触れる時、まず「ふ んわりと繊細に!」を心掛けるのは、その為なのです。




ボディートークは必然的に生まれた

背中は、その人の生き方を無言のうちに教えてくれる。

それゆえに 「レ・ミゼラブル」の主人公、ジャン・バルジャンの物語は見事に背中のドラマだといえるだろう。世間を逆恨みし、極悪人への道を決意して いるジャン・バルジャンの背中を、彼を気持ちよく受け入れた牧師の背中との対比は前回述べた。

話を先へ進めよう。夕食の接待を受け、ベッドを準備してもらったにもかかわらず、ジャン・バルジャンは夜中にそっと起き出して、銀の燭台を盗み出す。 ジャン・バルジャンを極悪人になるにちがいないとにらんで後をつけてきたジャベル警視にすぐとらえられる。

ところが、事情を察知 した牧師は「燭台はこの方に差し上げたのです。それにもう一つお忘れです よ」と、さらに別の燭台をジャン・バルジャンに手渡す。

かつてあり得なかった愛の力に困惑しながら、彼は行方をくらましてしまう。そして十数年後、牧師の愛の力で立ち直ったジャン・バルジャンは、 今は努力の末、実業家となり、人望を得て市長となっている。このときの市長の背中をどのようにつくるか。

背筋をのばし、肩に少し力みを入れる。しなやかに伸びた腰つきは行動力と意思の強さを表す。背中をまっすぐにのばすのは私欲にとらわれないこと。肩の力みは責任の重さを表す。いわゆる「肩の荷が重い」というしこりである。

この堂々たるジャン・バルジャンの市長が、町なかで事故の場面に出くわす。ぬかるみの中で一人の男が馬車の下敷きになっている。車輪は重くて誰も持ち上げることができない。折しも通りかかったジャベル警視は「この車を持ち上げることのできる男はジャン・バルジャンしかいない」とつぶやく。

そのつぶやきを耳にしながら、市長はフロックコートを脱ぎ捨て、満身の力を込めて車輪を持ち上げる。こ のときの背中こそクライマックスである。市長の背中、腰から一転して、あの忌まわしいツーロン刑務所の ジャン・バルジャンの姿勢に戻るのだ。下敷きになった男を救い出した時の一瞬の背中。腰を内へ固め、憎悪をむき出しにして重労働に耐えた、あの背中が再現されるのである。

すぐさま市長の背中に戻しはしても、時すでに遅し。ジャベル警視は市長こそジャン・バルジャンだと直感してしまう。そして執拗な追跡劇が始まる。
ドラマは全身表現であるから、俳優は心と体の結びつきをしっかりと理解することが必要である。

そして、このジャン・バルジャンの例のように、背中の無言の表現が、舞台でどれほど大きな役割を担うかもご理解い ただけたと思う。
心身一如といわれるように、心の悩みは具体的に体にしこりとなって表れる。このことを発見したのは、高 校生の音楽授業を指導する中で、生徒の背中に表れる失恋のしこりを知ったことに始まった。

生徒の相談を、背中をほぐしながらカウンセリングするうちに、やがて体に表れる自己顕示欲のしこり、家庭不和のゆがみなどがわかるようになり、大人の相談も受けるようになって、肩の荷の重さや、恨み、人に対する気遣いなどのしこりの表れ方に確信を持つようになった。

同時にそのころ、脚本を書いたり、踊りの振り付けをしたりして、高校のミュージカル部や大人の劇団も指導に入っていたから、演技についても強い関心があった。

あるとき、演技指導の中で、体にしこりをつくると、そのしこりなりに確実に心が変化するということを体感した。この原理がわかると話は早い。自分で体のあちこちにしこりを作ってみて、そのしこりがどんな心を生むのか、じっと体の声に耳を傾けるだけで、心と体の結びつきが 次々とわかるのだから。

こうしてボディートークの体系は発声法や表現法の分野から進ん でいったが、内容をより掘り下げ、裾野を広げるほどに、人と人 の関係が体の問題であることが解明されてきてボディートーク人間関係法ができあがり、これらすべてが心と体の健康、すなわち自然体法と結びつくことになったのである。

ボディートークはその意味で、人生を生き生きと充実して活動できるようにするための土台となるものである。人類は四つ足動物から生存し生きて生活するための知恵の力によって直立歩行し、文明を築き上げてきた。そして今、知恵の力によって自らの心と体を健康にする方法を、生み出さなければならない宿命を持つ。ボディートークは生まれるべくして生まれた。21世紀への人類の知恵であると思う。




困ったときには三人輪くぐり

● 泣いて 心・体・頭をリラックスさせる技

「できない!できない!」 「だって、私にはとうてい無理なんだもの!できるはずない!」 自分では解決できないほどの問題を目の前にした時、ついこう叫びたくなりますね。こういう時は思い切ってあきらめてしまうか、ちょっとその問題から 離れてみるといいのでしょうが、それでも逃げられない状況に立たされた時、 あなたはどうしますか。むしょうに腹が立ってやたらに食べ始める人もいます し、泣き出す人もいるでしょう。

私はかつて大学入学の頃、身長160cm、72kgの体重で、ニックネームも 「ブーちゃん」と叫ばれていました。その体重で強制的に入部させられた新体操チームのメンバーは皆、国体出場経験のあるバリバリのスポーツ・ウーマン。 その中で、難度の高いテクニックを一緒にこなしていくのは至難の技でした。

何百回、何千回練習してどんなに頑張ってみても、どうしてもできない技になると、自然に涙が目から溢れてきて、何故か大泣きしていました。すると不思議なことに、泣いた後には必ずその技ができるようになるのです。こうやって、 泣いて心・体・頭をリラックスさせる技上達し、一年後には体重も50kgラ インに減量。チームは全九州で優勝を飾ることができました。

● 三人輪くぐりの知恵」

そんな私も42才でボディートークに出合ってからは、ボディートークのパ フォーマンスの中に見つけた知恵に助けられ、生き方もずいぶん変わっていきました。今回は、困った時にきっとお役に立てていただけるおすすめのパフォ ーマンス『三人輪くぐり』をご紹介いたしましょう。

《三人輪くぐり》
1 三人互いに両手をつなぎ輪をつくります。  2 そのつないだ手の間を「ホッホッホッホッ」と発声しながら、ペンギン歩きでくぐり抜けていきます。くぐったり、出たりを繰り返すことによって、各々の肘・肩・体が必然的に色々と変化しながら動きます。  3 上達すると、「シュ〜」とか「スルスルスル」とか風が穏やかに吹き抜けていくようなイメージで、なめらかにスピードをあげて動いてみます。  4 もっと上達すると今度は 2、3の動きを目を閉じたままでやってみます。 最初はお互いの手を引っ張りすぎあったり、ぶつかったり、ギクシャクして 上手にできないのですが、工夫してやり続けていくうちに“アレッ!スムーズ に動ける様になった”と感じれたら、成功です。

三人各々が、自分の心・ 体・頭をひとつとして、しなやかに素直に、その流れに身を任せるようになる と、オノズと生き方、考え方、行動の仕方も、その場の変化にホイッとついて いったり、積極的にリードできるようにもなっていくのです。

このバフォーマンスの大きなヒントは、手をつなぐという条件を制約されているので不自由〉と捉えるか、〈制限があるからこそ、その中に《生み出さ れるものがあるから素敵〉と考えるかです。私はこのパフォーマンスが大好きです。特に目を閉じると(視覚をクローズする)、残された感覚が敏感にな り、体の声が聴きやすくなってきて、全身がさらに自由になり、まるで無重力の中で漂っているような楽しさです。

● 大切なものが見えてくる

今、私は二本足でスムーズには歩くことができ ません。三本足(一本は松葉杖に支えられ)でゆ っくり一歩ずつ歩くのが精一杯です。でもその中で赤ちゃんがハイハイから立ち上がり、歩く営み の凄さを改めて感じたり、事故や高齢になり今までやれていたことがやれなくなっていく人たちの 気持ちにも、寄り添える自分になっているような気がします。

「三人輪くぐりの時、ぶつかったり体がもつれるような時は、そこでちょっ と立ち止まったり、ちょっと力を抜いてみてくださいね」と、アドバイスをす ると、スムーズに動ける様になることもあります。

新幹線に乗ると、早くて便利ですが、外の光景はあっという間に流れ去ってしまいます。でも、一歩ずつゆっくり歩いてみると、普段見えなかったものも、 これまで見落としていたものも自分の心さえも見えてくるものです。ひょっと したら、赤ちゃんやお年寄りの方が、自分にとって大切なものが輝いて見えて いるかも知れません。




背中は人生を物語る

ジャン・バルジャンが牢獄を出たとき

背中は人生の地図である。その人の生き方がそのまま刻み込ま れている。従って背中のしこりやゆがみを見れば、その人がどの ように生きてきたかがわかる。
その意味で背中と心は一致しているから、逆に、例えば背中に 恨みのしこりを意識的に作ってみると人を恨む気持ちになる。 当然ながら声も恨みがましくなる。このことが演技表現の大切なポイ ントとなる。

ある時「レ・ミゼラブル」というミュージカルを観に行った。 ビクトル・ユゴー原作のジャン・バルジャンの物語である。

舞台は暗く、陰うつなツーロン刑務所から始まった。
極貧の中にも実直に暮らしてい たジャン・バルジャンが、家族のため一斤のパンを盗んで捕らえられ、二十年間も幽閉されていた牢獄である。その牢獄の門を前に、刑期を終えたジャン・バルジャンが布袋を背負って立っている。インパクトの強いオープニングである。

ところが俳優の演じる、このジャン・バルジャンが、どう見 てもジャン・バルジャンに見えない。何故かというと、背中をシャンと伸ばして堂々と立っている からである。これは刑期を終えた男の基本姿勢ではない。

演劇には各々個有の表現理念があるから、必ずしも私の言う通りに演じる必要はないが、ジャン ・バルジャンに関しては特に背中の表現が大きな意味を持つドラマだと思う。

そこでボディートーークの原理に従って、このドラマを表現するとどうなるか、皆さんも体を動か しながら体験していただきたい。
ジャン・バルジャンの基本姿勢は少なくとも3つある。1つは重労働の腰付きである。「あー疲 れた」と重い息を落とした時、それが肉体労働の疲れであり、犬が尻尾を巻き込んだような腰付きとなる。過酷な肉体労働が長年、来る日も来る日も続くと、腰を縮めたまま筋肉は硬くなって、 尻尾を巻いたような姿勢は固定される。

当然、背中は丸くなり、アゴを前へ突き出すことになる。2つめは憎悪の背中である。「史記」の著作で有名な司馬遷が牢獄で無念の最後を遂げた時、背中にコブが出たという話が残っているが、このコブは恨みのしこりである。肩甲骨の下部に表れる。

ジャン・バルジャンはたった一切れのパンを盗んだために20年間も牢獄に捕らえられたのであ る。当然世間を激しく憎んでいる。そして出獄の暁には大悪人になってやろうと密かに決意してい る。それだからこそ、ジャベル警視が初めから目を付けていたのだ。

憎悪のしこりを作るには背中の真ん中、胸椎8番の両側をウンと息を詰めて硬くする。従って憎悪に狂う人間の息は詰まっていてきゅうくつである。

基本姿勢の3つめは目付きだ。憎悪であっても、社会に対して正面から戦うのであれば、目付きも真っ直ぐであるが、ジャン・バルジャンは腹黒く、復讐してやろうと考えている。そのため世間を斜めに見ている。この気持ちになると、体は半身に構え、横目で相手をにらむようになる。

皆さんも立ち上がってこの3つの基本姿勢を試してみよう。まず骨盤を内へ傾けて、腰に力を入れ背中の中央を硬くして息を詰める。そして半身に構えて横目で前をにらむ。その姿勢で布袋 を肩にかける。これがジャン・バルジャンの出獄の時の姿勢である。

刑務所を後にしたジャン・バルジャンは、とある教会に一夜の宿を恐る恐る申し出る。にこやかに彼を迎え入れた牧師はどのような背中をしていたか。もちろんわだかまりのないスーッと伸びた背中である。

舞台での牧師は力みのない、真っ直ぐな姿勢で演じられていた。ところが主役のジャン・バルジャンも背を伸ばしスラッと立っていて、おまけにこちらの方がグンと背の高い俳優だから、あまりに堂々としていて、どちらが牧師の役なの か一瞬とまどってしまう。やはりスープをむさぼるようにして飲むジャン・バルジャンは、3つの基本姿勢で演じないと牧師との関係が表現できないのではないか。

さて、この背中がどのように変わり、やがてクライマックスでどのようなドンデン返しになるの と、それは次回で述べることにしよう。




心がときめく秘密

● 桜が知っている私のひみつ

ないしょ  ないしょ  ないしょの 話は あのねのね
ニコニコ にっこり  ね母さん〜 ♪

この歌のように、秘密のお話って何だかちょっと胸がときめきませんか? 私にも心がときめく《ひ・み・つ》があります。20年前、アキコダンスファ ミリー(私の主宰する、赤ちゃんから80代までが踊るダンスグループ)の10 周年記念に福岡の甘木公園(通称丸山公園)という桜の名所に桜の木を献木させていただきました。

皆で一人ずつ自分の願いを書いた紙を、その木の根元に一緒に埋めま した。その木は20年経ち、もう立派に大きくなっています。もちろん願いを 書いた紙はすでに土になっています。でも、私だけが知っている紙に書いた願いは、春の桜の花とともに膨らみ続けています。

● 折鶴に込められた願い
もう一つの私の心がときめく《ひ・み・つ》 は折鶴のお話です。かつて私が短期大学で教鞭 をとっていた時、縁あってアメリカのスティー ブンス大学に日本舞踊の交換教授として招かれ ました。

1月から3月までの短い期間でしたが、 100年の歴史を誇るその大学のダンス科には、 世界各国からすぐれた若いダンサー達が集まり、 スカラシップ学生として30名学んでいました。ミズリー州は、その年例年に ない豪雪でした。まだ薄暗い朝、誰の足跡もついていない白銀に染められた広い広いキャンパスを、着物を着て、ピンクのブーツを履いて一人教室へ通 っていました。(毎朝20~30cmの積雪でした)

講座のまとめとして学生全員で踊る日本舞踊のコンサートを無事に終え、お別れの日がやってきました。私は彼ら、彼女らの為に、プレゼントを用意して いました。(それは小さな折鶴でした。全長 4~5cm)「日本には千羽鶴というものがあります。一羽一羽に自分の願いをこめて折っていくのですよ」と、 折鶴の歌を歌いながら、一人ずつの手のひらに、それを渡していきました。実 はその折鶴のウラには、「いつまでも、すこやかに」という私の願いと一人一 人にあてたメッセージが書き添えられていたのです。でもその事は折り鶴だけ が知っている、私の《ひ・み・つ》です。

ベンチの贈り物 では最後にとっておきのお話をいたしましょう。京都にある妙心寺のバス停 には、木製のベンチが一つありました。でももうボロボロになってしまって腰をかけるのも怖い位。ところがある日、バス停での二人の女性の会話。

Aさん「アラ!このベンチ新しくなったんですね。良かった〜。これで安心して座れますね。ああ気持ちいいこと」 Bさんも「アラ、本当に気持ちいいですね。良かったですね」とニコニコ顔。実はこのBさんこそ、ベンチを注文し、そっと誰にも分から ぬように置き換えた方だったのです。

その方の名前は増田美和さん。そう、明先生のお母様だったのです。そのお母様は来年で100歳になられます。いつお会いしてもお元気で、明るい笑顔で微笑んで下さいます。その微笑みに包まれると、心も体もホッと暖かくなっていきます。

そしてお母様の心の奥には、もっともっと《きらめくひみつ》が いくつも隠され、それが明るさと元気さとなって輝いていらっしゃるのでしょう。長い人生を歩いて来られた方々の心の奥には、外から は見えないけれど、きっと《きらめくひみつ》がいっぱいあるのでしょうね。

《内なるきらめき》が持つ穏やかさは、私にはこよなく美しく感じられます。 その美しさは、いつの日か私もそうなれたらと願う心を育ててくれます。みなさんの周りにも《きらめくひみつ》のお話がたくさんあることでしょう。時々、 そんなお話をゆっくりお互いに語り合うと、あちこちに心の花が開き始めるような気がしています。




お腹に問題あり

体に表れたサイン

つい先ほどまで元気だったのに、急に頭痛がしたり、おなかが痛くなったり、吐き気がしたり、気力が萎えてしまったりすることがある。原因がはっきりしていればともかく、何故そうなったのか、わけがわからない場合もよくある。

「病は気からというように、原因不明の場合は、心の 問題が体にシコリやユガミを生じさせているようだ。 1
K子さんは明るく元気な20代の女性である。弟子も多い中堅のピアニストである。そのK子さんがある日、体 調が悪くて個人レッスンを受けに来た。

彼女の訴えは、「起きると全身に悪寒が走り、何をする気力も出な い。幸い熱はない」すぐに病院へ行ったが原因はわからず風邪だろう、とのこと。しかし今まで経験したことのない体のふるえがあり、気が抜けてしまっていてとても不安だ。
ボディートークでは心と体の結びつきを調べる。全身に寒気がする場台は、たいてい腹に問題がある。

早速、仰向けに寝てもらっておなかに手を当ててみると、案の定、しっかりとシコリを作っている。K子さんの場合は胃の上部と下腹部左側をギュッと固くしていた。胃の上部のシコリは「いらたち」である。アセリの気持ちでイライラすると、この部位が硬くなる。

ちなみに「腹立ち」場合は胃全体が縮んで立ち上がったようになるし、 クヨクヨと思い煩うと胃の下部が硬くなる。また下腹部左側は「悔恨」のシコリである』K子さんのは、出来立てホヤホヤの「激しい後悔」の硬さであった。
「K子さん、昨日、何か大失敗していませんか?」と私が聞くと、K子さんはハッと して、「そうなんです」と息せき切ってしゃべり始めた。

彼女はピアノの教え子の結婚式に招待されていて、式は明日の1月15日(祝日)
と思い込んでいた。それで昨日の1月13日(日曜日)にパーティー・ドレスを準備していたところ、母親が「ちょっと変よ」と言いだした」15日は祝日とはいえ、仏滅である。普通は結婚式は行わないのではないか、という判断である。

K子さんはあわてて招待状を確かめてみると、やはり式は13日であった」手帳に写す時にうっかり15日と書き込んだようだ。勘違いと気付いた時は、折しも披露宴が行わ れている時刻であった。しかし今から出発していてはとうてい間に合わない。

どう言い訳したものか、K子さんはなすすべなく、悶々として、その夜、床に就いた。 そして翌朝、原因不明の激しい悪寒という症状となった。
話を聞きながら、私はK子さんのおなかを軽く揺すりながらほぐした。おなかを硬くしたた原因である心の問題を指摘しながら、その部位をほぐすと、シコリは消えていく。

やがてK子さんのおなかが柔らかくなるにつれて、手の先や足がポカポカしてきた。 息もゆったりとしていつもの笑顔が戻ってきた。そうなると失敗への対応策も浮かぼうというもので ある。「正直にわけを話して、もう一度お祝いの品を 奮発することにします」とK子さんは晴々として帰っ ていった。

体の問題を心が納得すると不安は消える。ところが、 体の痛みや不調と心の悩みの直接的なつながりを理解していない人は、原因不明の症状に右往左往することになる。

心に生じたイメージは必ず体に表れる。したがって 体に表れたサインから、逆に心の悩みを知ることも可能なのだ。ご自身も肩がピリッと痛くなって初めて、「あっ、今度の仕事は随分プレッシャーが る、かっているのだな」とわかることもある。
「肩の荷が重い』というのは、心にとっても 体にとっても同じ問題なのである。