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魔法のしかけ

Kちゃんは外国で育ち、里帰りでおばあちゃんの家へ初 めて連れてこられました。しかも大好きなママはお仕事で、パパと二人道中です。知らない所へ、知らない人のお家へ泊まることになり不安いっぱいです。 パパの腕にしっかりしがみついたまま、片時も離れません。

ところが突然パパ が「ちょっとトイレへ」と、抱っこから降ろして行ってしまいました。さあ大変。Kちゃんは全身を震わせ、その場で大声で泣き始めました。おばあちゃんは、もうオロオロ・・・。

子育ての中でよくある光景です。私は 「パパはトイレだよ」といいながら、K ちゃんの手をひいてトイレの前まで行きました。「Kちゃん、パパどこ!って呼んでごらん。パパ!どこ!って」と言うと、 Kちゃんは泣きながら「パパ!パパ!」
「パパ!どこ?」と一生懸命叫び始めました。

私も一緒に叫びます。「パパ、ど こ?」すると「Kちゃん ここだよ」と、パパがトイレの中から答えてくれま した。パパの声が聞こえると、更にKちゃんは泣きながら、「パパ!パパ!」 と叫びます。パパがトイレから出てくると、両手を伸ばし、パパの腕に飛び 込んでいきました。

日頃、まだ「パパ!」という言葉があまり出なかったKち ゃんでしたが、それからは「パパ!」の言葉を頻繁に使うようになりました。

● 強い願いが生み出す動きと言葉

《強い願いが生み出す動きと言葉》のところで述べましたが、《自分の強い願い》が全力で《動くエネルギー》を生み出し、その動きが《願いの言葉》になっていく。この仕組みをしっておくと、赤ちゃんが言葉を覚えていていく。もしくは、赤ちゃんの手におっぱいを触れさせてあげる。すると必ず 赤ちゃんの方から、おっぱいへくっついていくのです。

些細なことのようです が、《自分の声を出し、自分の意志が相手に伝わり、その欲求が満たされた喜び》が赤ちゃんの《自立の心》を育てていくスタートでもあるのです。そして赤ちゃんが《自分の欲求》を伝えられたことをしっかり誉めてあげることも大 切です。

● 布オムツと紙オムツ

おしっこについても同様のことが言えます。オムツが濡れて気持ち悪くなっ て泣いて母親に知らせることも、赤ちゃんにとって大切なことなのですが、今は紙オムツになり、不快感がなるべくないよう工夫されていますので、赤ちゃんは不快感を合図するチャンスを取り上げられているのです。

赤ちゃんの心の成長からすれば布オムツの方がすぐれていることもお分かりだと思うのです。 そしてやっぱり「偉かったね。おしっこしたよって言えたね」「気持ち悪かったね~。気持ちいいしようね」「あーうれしい気持ちいい! 気持ちい い!」とまめにオムツを換える。その時の赤ちゃんの《感覚》《感情》をお母さんが繰り返し《言葉》にしてくことは、赤ちゃんの言葉の力がついていくこ とにつながるのです。

● お母さんが《魔法のしかけ人》になると

本当のあたたかい魔法のしかけ人は、赤ちゃんが気づかないように、そっと、ふんわりと赤 ちゃんの心の中に入り込み、赤ちゃんの心をそのままに言葉にしてくれるのです。そしていつの間にか魔法のしかけ人は、赤ちゃんの心から そっと上手に抜け出します。

その時には、もう赤ちゃんは少しずつ《自分の感覚や感情や意志》を《自分の言葉》で伝えられるように成長し始めるのです。お母さんが「あたたかい魔法 のしかけ人」になってくれた赤ちゃんが、どれだけ幸せかは、言わずともお分かりですよね。

Kちゃんの場合も、ただ「大丈夫、パパはおトイ レにいったのよ。すぐ帰ってくるよ」と抱っこしながらなだめるのも一つの方 法ですが・・・。この状況を、

1 自分の足で自ら動き、欲するものを探すこと(得ること)

2 相手が見えない時も、声を出して呼んでみることで、自分の存在を知らせることができること。

3  そこに《言葉》が加われば、より明確に自分の意志が伝えられ学習できるチャンスとして捉える方法

あなただったらどちらを選択され ますか?
あなたが言葉の通じない国へ一人で出かけたとしたら、英語で言えば「I’m hungry!」と「I love you!」を知っていれば大丈夫だと冗 談で話すことがありますが、赤ちゃんもお母さんのお腹の中から全く言葉の通 じない世界へ生まれるのです。

赤ちゃんの「おなかが空いた!」「おしっこ、うんこが出て気持ち悪いよ~!」「ねむたいよ!」という意思表示は生きていくための基本的欲求である、食欲、排拙欲、睡眠欲、それを《声を出して泣くこと》で相手に伝えようとしているのですね。

野生の動物の赤ちゃん達は、い も豊富にエサがあるわけではないので、親達がエサを運んでくると、我先に 争うように、鳥なら「ピヨ、ピヨ、ピヨ!」ち首を懸命に伸ばし、口を大き く開けてエサにありつこうとします。また猫であれば、「ミャーオ、ミャー オ」と他の子猫を押しのけてでも、おっぱいのところへ早く行こうと、スリ寄 っていきます。《生きていく》ためには、まず自分の全力を尽くして食べ物を ロにしようとするのです。

● 突然おっぱいが口の中に入れられてくる?

その視点に立つと、そろそろ授乳の時間だからと、赤ちゃんがまだおなかが空いたと合図もしないうちに先々とお母さんのおっぱいを赤ちゃんの口に持って行くのはどうかな?と考えさせられます。

お腹が空くと、赤ちゃん は泣くようになっているのです。泣き出してからお母さんが、「偉いね~ お っぱい欲しいって言えたね~」「おっぱい欲しいね」「さあ、おっぱいにしましょ」と声をかけながら、赤ちゃんの口から少し離れたところにおっぱいを持っていくと、赤ちゃんは口を近づけおっぱいをまさぐります。

この、自分でみずから食べ物を求める行為が赤ちゃんの自立心を養うことにつながるのです。




表現は自発的に

歌にせよ踊りにせよ、あるいはそれ以前の日常での自己表現にせよ、およそ表現するということ は、本来、自発的に行われるものです。強要されてシブシブ行うのでは、内からの生命の輝きは出てきません。 中国で雑技団を見ました。いわゆるサーカスで す。

その中でも犬のショーは楽しめました。数十 匹の犬たちが所狭しとスベリ台やシーソーを駆け 巡り、高い踏み台を次々と飛び越えてハラハラと させてくれます。指図する人は、犬が思い通りに 動いてくれないので、右往左往してオロオロしています。もちろん、そういう演出なのですが、そ れにしても犬たちはこの演技を楽しんでいます。 だから活き活きと走り回っています。そのスピ ードには爽快感がありました。

いけなかったのがパンダです。首にクサリをつけて、係員が笹を食べさせながら演技をさせるのですが、グルグルと回ったり、細い板の上を歩く位のことです。それをクサリに引っ張られながらノッソリと演じるので、見ていても心が弾んで来ません。どう見てもパ ンダは嫌がっているとしか思えないのです。その意味で無理矢理させられる演技は表現活動とは言えないのではないでしょうか。

人間にも同じようなことがありますね。例えば、レクリェーションの罰ゲームと 称して歌をうたわせるのも、そのひとつ。人前で歌うなんて恥ずかしいっ!と思う 日本人だからこそ罰になるのでしょう。でも嫌々歌っている人の声を、あなたは聞 いていて楽しいですか?

表現は自発的なエネルギーから生まれるものです。生命を自ら弾ませて積極的に 行うものです。それと反対の私の苦い音楽経験をお話ししましょう。
音楽大学でバイオリンの勉強をしていた頃です。先生から「君の音程は四分の一 音、低くなっている」と、よく指摘されました。自分でも確かに音程を少し低くとるクセがあるな、と思っていましたが、なかなか直りません。

歌う時は、自分でもどうしたものかと思案していました。。そして卒業する頃に なってハッと思い当たったのです。

子供時代のバイオリン練習が原因だと気付いたのです。小学校へ入学して、父親 からのバイオリン教育が始まったのですが、毎朝たたき起こされて通学前の練習で す。厳格な父親でしたから、スリッパ片手に教えます。少しでも間違えると、 お尻にスリッパがパシッと飛んできます。それが嫌で嫌で仕方がありませんでし た。

トイレに逃げ込んだり、縁の下に隠れたりと、あの手この手でサボっていたのですが、父親もほとほと手をやいて、私をバイオリニストに育てようという夢を6 年間であきらめてしまいました。

やがて、京大の法学部に入り、三回生になって進路を決める時、やっぱり音楽家 になろうと、音楽大学を目指したのです。音楽と名のつくものなら何でも良かったのですが、バイオリンが一番手近だったので、バイオリンをもう一度勉強し直して、 バイオリン科に籍を置きました。

そのような訳でしたので、バイオリンを持つと体の無意識の中に強い防衛反応が あったのでしょうね。楽器にスッと馴染まないのです。特に首筋を固くするので、耳の神経も解放されません。心を重くしているのものだ から音程のとり方も低目になるのです。

やる気のない行動は遅めになったり、適確さを欠いたりするものです。 私のバイオリン演奏の根底には子供時代の拒否反応が潜んでいる、と気付いたのです。
原因が解明できれば道は開かれてきます。

鏡を四方に置いて演奏の姿勢を細かくチェックし、体をやわらかくして一音一音を心の底に染み通る感覚の練習を始めまし た。そして卒業演奏の曲目には、演奏したくてウズウズしていたブラームスのバイ オリン・ソナタ二番を選びました。

体も心も素直に音楽に集中できるようになって、やっと私は幸福感に浸りながら バイオリン演奏に熱中するようになりました。ボディートークの自由表現法の始まりです。もちろん、四分の一音の狂いも自然に消えていきました。

心に抵抗のあることは、行動の端々に表現のひずみとなって表れます。だから自 然で、素直で、豊かな表現をするためには、まず心や体をスッキリさせておく必要があります。

そのためにボディートークでは表現の前に『心身一如の体ほぐし』を して、日常に溜め込んだ毒を抜くことにしています。




あたたかな魔法のしかけ

全身でやってみよう

「ヨーイスタート! しっかり押 して!」「もっともっと強く!」イモ虫 さん、ネズミさん、小鳥さん、アリスたちが大人のトランプたちに体当たりで ぶつかっていきます。トランプたちも負けずに押し返します。それでも小さな 子どもたちは、更に全身で大人たちに向かっていきます。

その押す力とともにセリフが発せられます。「やめて!やめて! 木を切らないで!」「何で切るん だよ!」「この木はみんなの家なんだから!」「私たちの大切な生命の木よ!」 と訴え続けます。これはミュージカル「不思議の国のアリス」の練習のワンシ ーンです。

● 強い願いが生み出す動きと言葉

「木を切らないで!」という《強い願い》が全力で相手にぶつかっていく 《動くエネルギー》を生み出し、その動きが《“願いの言葉》になっていきます。 このような練習を何度も汗びっしょりになりながら繰り返し、やがてそれが 《歌》になり《《踊り》へとつながっていきます。

もちろん《強い願い》を一人 一人が自分のものとして持っためには、このミュージカルの《テーマは何なの?》ということからみんなで考えて行く時間がたっぷりと必要となります、

段取りだけでセリフや振り付けを覚える――それをやってしまうと、心が ついていかないのです「何で木を切っちゃダメなのかな?」「世界の全ての木を切ったらどうなるの?」「木はどういう役割をしているの?」とたずねていくと、《植物や動物が生きるためには酸素がいること》や《地球環境はどうな っているのか?》の答えから、【木を切ってはいけない】の理由が分かり、子 ども達の木を切るなんて許せない!♪の歌い方が内から膨らみ、グンと力強くなっていくのです。

まだようやく歩き始めた生後一年半になるイモ虫役のはるちゃんも、お姉ちゃんやお兄ちゃんたちのパワーに乗って「ア~ア~!」と声を出しながらトランプに向かっていったり、ぴょんぴょん跳ねています。こんな微笑ましい光 景も加わりながら、幼児から80代の高齢者までもが一緒になって作り上げていける舞台の感動は格別です。

● 安心して自分が出せる場で育つ《意欲》

自分の感情を思いっきり全身で出したり、表現できる安心の場があることは 特に子どもの心の成長には欠かすことができないものです。舞台の日を目指して、何度も何度も練習を繰り返し本番に臨む。ドキドキするけれど勇気を持って舞台に立ち、やり遂げ、大きな拍手の中に包まれた時の感動。その感動が《自分はすごい!自分でできた》という喜びと自信になり、《もっとやってみ たい。もっとやってみよう》というエネルギーを生み出していくのです。

つまり、《I want to do! (意欲)》が沸いてくるのです。またそこに感動をともにする仲間がいれば、《感動》が共鳴し合って《意欲のエネルギーがより大きな力》となり、それが自分を支えてくれた人たちへの《感謝》へと発展 していけるのです。

● あたたかい魔法のしかけ

幼い時から内に思いがあるにもかかわらず、上手に自分の感情が外に出せなかった子や充分に言葉にすることが出来なかった子も、いつの間にか気がつくと、舞台が近づく頃には思いっきり声を出したり、自分の意見を言えるようになっていきます。でもそんな成果の裏には《あたたかい魔法のしかけ》が あるのです。

それは一つには、増田先生の脚本の力があります。子ども達の生命が輝くようにと熱い思いをこめて書かれた増田先生の脚本には、日ごろ思い切って出せない自分の感情や言葉がいっぱい宝石のように詰め込まれているのです。

それを全身で何度も繰り返し演じていくうちに、それが《自分の内なる感情や言葉》であったことに心と体が気づき、今度は《自分の奥底に押し込めていた感情や言葉》が沸き起こり、単なるセリフでなく《自分の言葉》となって輝き始めるのです。

この魔法のしかけにかかると子どもだけでなく、「あ、このセリフが言いた かったんだ!スッキリした!」とか「だからピーターパンの海賊の役はやめられないんだ!」とか、急にイキイキと蘇る大人たちも続出するのです。

● お母さんがあたたかな魔法のしかけ人になると?

そんなミュージカルに出逢えた人はとても幸運ですが・・・。実は子育ての 時、お母さんがこのあたたかい魔法のしかけ人になれると、赤ちゃんが素直に自分の感覚や感情を言葉にしていける道がつき、豊かな個性が育っていくので す。それは、増田先生のミュージカルの脚本の中にちりばめられていたセリフ ような役割を、お母さんがしていくのです。では、具体的な方法は次回にご 紹介することにしましょう。




天使の声が聞こえる

無音の中でも鼓膜は振動

パリの教会で「ハレルヤ・コーラス」を聴きました。 ヘンデルが作曲した混声合唱の世界的名曲のひとつ です。音楽好きの叔母に連れられてコンサート会場で初めて、この曲を聴いたのは、小学校の低学年の頃 だったでしょうか。コーラスが始まると聴衆がどんどん立つので、何事だろう、と子供心に深く思ったのを覚えています。

この習慣は、時の国王ジョージII 世が、ハレルヤ・コーラスのあまりの荘厳さに感動をして、立ったまま聴いたことに由来しています。 私が中学生の頃、聖歌隊でこの曲をよく歌ったのですが、やはりほとんどの人が立って聴きました。

中には権威に反発をして立たない人もいましたが、私も聴くときにはどちらかというと立たない方 だったですね。最近では、この習慣も随分薄れてきていて、パリでも立つ人は会場の半分以下で した。

「ハレルヤ」とは神を賛美する言葉です。この言葉を中心にコーラスは歓喜へと高まって行きます。 そして最高潮に達したとき、突然、コーラスもオーケストラもパタッと鳴り止むのです。音楽の用語では G.P.(ジェネラル・パウゼ)と言います。
その直前までは何度も何度も「ハレルヤ」と連呼しますから、歌う側としてハ レルヤの数を数え損ねると大変です。皆んなが一瞬にしてシーンとなるところへ、 間の抜けた声で「ハレ…」と声が出てしまうと、背中にザーッと冷や汗が流れま す。私も一度、この恐怖を味わったことがあります。

そもそもヘンデルは何を意図して、こんなところに G.P.を持ってきたのでしょ うか。私にとっては子供の頃からの謎でしたし、また指揮者たちも合唱仲間も、 誰ひとりとして、この謎を解明してはくれませんでした。

でもパリの教会で聴いて、ハタとその音楽的意味に思い当たりました。

御存知のように、ヨーロッパの伝統的な石造りの教会は異常に天井が高いのです。 中に入って見上げてみると、先端がとがっていくので、気の遠くなる高さに思えます。キリスト教では神様は天上にいると考えましたから、このような効果を強調したのでしょうが、人間の存在が地上に這いつくばって小さく感じられます。

このような教会でポンと手を打ちますと、残響が大きく、また幾重にもエコーがか かります。
ヘンデルはこの残響現象に着目したのだと思います。即ち、地上で「ハレルヤ」 と高く神を賛美し、G.P.で地上の音をバタッと止めると、その声は教会の上へ次 々と舞い上がって行きます。そして最後に、天井の最も高いところから秘そかに「ハ レルヤ」と天使の声が響きます。

パリの教会では、私の耳には本当にそのように聴こえたのです。だからオーケス トラの人もコーラスの人も会場の聴衆も、耳を澄まして天使の歌声を聞く瞬間が、G.P.の素晴らしい表現だと思います。そして、その至福の声を聞き届けた時、地上では感極まって「ハ・レ・ル・ヤー!」の大合唱で終わるのです。

もうひとつ大事なことは耳の鼓膜はいつも微妙に振動 しているということです。聞こえるか否かの小さな音でも鼓膜を共振させることで増幅し、音を大きくして聞くことができるためだと思えます。

また反対に聞きたくない音や、嫌な人の声の振動を、それとは逆方向に鼓膜を
振動させることで、音量を弱めることもできるのです。 年寄りが自分に都合の悪いことは聞こえなくて、家族がヒソヒソ話をするとしっか り聞いている、といういわゆる地獄耳は、このような鼓膜の働きからくるのでしょう。

バイオリンの演奏などで、静かに弓を奏き終わっているのに、聴いている人の耳 には音が響いているという経験はありませんか。これは幻聴ではなく、実際に鼓膜が振動しているのです。そして、このような振動は自ら作り出すことですから、得も云われぬ美しさとなるのです。

ヘンデルはこのような耳の働きは知らなかったでしょうが、人間の音楽的行為を 一斉にストップさせて天上の声を聴く、というアイデアはさすが天才の為せる業で すし、またハレルヤ・コーラスの中で、このG.P.こそが核であると、私は思ってい ます。




そっと手を添えてみると

美しい動きとは、まっ白な半紙を前にフーッと息を深くして、たっぷりと墨をつけた筆先をそっと下ろし、想いをしたためる。穏やかなその姿からは、物静かな美しさが漂ってきます。筆を運んでいく右手はもちろんですが、半紙にそっと添えた左手も右手の変化に応じて、微調整を繰り返し文字を完成していきます。

ベンやワープロを使う時には、決して見ることのできないこの繊細な動き。 気がつくと、筋肉と神経を細やかにこなす所作が、今、日本人の生活から次第 に少なくなろうとしています。

● 木と紙と土の文化

鉄や石の文化と異なって、木と紙と土に包まれ創られていった日本文化。壊れやすいから、破れやすいからこそ、そっと大切に、丁寧にものを扱うことが必然だったのでしょうね。

四季がある日本は、温度、湿度が季節ごとに変化していく。それに適応して食べ物、衣服、住居が工夫され、私たちの心や体も、それらのものとの触れ合いの中で育まれていったのです。物にやさしく触れること が、毎日の生活の中にふんだんにあったのです、

唇に直接触れるものだからと工夫された、木製や陶製の食器。涼しさや暖かさを上手く加減できるような着物の工夫、素足での動き、感触が工夫された履き物、畳など…。でも今は、スプーン、コップを用い、洋服を育て、畳、障子、襖などない家で住む生活が増え、正座して両手を添えながら、そ~っと静かに戸を開ける所作など、普通の生活の中からは消えかけていっています。

≪揃える、添える≫と心と体が変わる? 熊本の6月のBTリーダーの研修会に、「みなさん、おはようございます」 さわやかな朝の挨拶から始まりました。

「今日は、挨拶の時の手の置き方に ついて考えてみましょう」「両手をこすり合わせ、暖かくした後に、両手の指を拡げて太ももの上に置いた時と、五本の指をそっと寄せてふんわりと置いた 時、どのように心と体に変化があるか、感じてみましょう」

目を閉じて実験してみました。「どうですか?」とたずねると、「指を揃えておくと、なんだか 指を拡げた時より、やさしく穏やかなあたたかさが体に伝わってくるみたい」とか、「自分が自分をとても大切にしている感じがする」などの答えが出ました。

昼からのマタニティの教室では、「ジーンズをはいて両膝をくっつけた時と、スカートをはいてくっつけた時では、どのような感覚が異なると思いますか?」の質問に、「スカートの時の方が直接太もものぬくもりが伝わりやすくなり、ホッとできる気 がする」などの答えが返ってきました。

(実は着物を着ると、両膝はいつも閉じている状態になり、着た人の心と体は包まれた感覚になり、ほっこりなれる のです。)

このように私たち日本人の生活には、≪息を内息にし、自分の内に気持ちを向けて、心や体を整えたり、まとめたり、温めたりできる≫所作が多かったことが分かります。

● 大切なものには手を添えてみよう。

赤ちゃんの頃から、お母さんがこういうことにちょっと感心を持つだけでも、赤ちゃんの心の育ち方が変わってくるように思えるので、赤ちゃんがおっぱいを飲んでいる時、さり気なく赤ちゃんの手を、おっぱいに持っていってあげましょう。自然に大切なおっぱいを感じていけるようになります。

哺乳瓶になったり離乳食を食べる時も、ただ口をポカーンとあけて、両手をダ ランと下げ、与えられる食べ物を待つだけの子どもでなく、≪自分の生命をつなぐ大切なものは、自ら積極的に手をばし、大事に感謝しながら、両手を添える、いただく、触れるという感覚≫が自然に身につくようになることでしよう。

大人になった私たちも、新鮮な気持でもう一度手を添える、揃えるなどを楽しんでみてはいかがでしょうか。

あなたの中に眠っていた、ほんわかした感性が目覚めてくるかもしれませんよ。
では、まずは両方の手のひらの指をそっと揃え、『水のこころ』の詩を読んでみて下さい。

水はつかめません  水はすくうのです

    指をぴったりつけて  そぉっと大切に

 水はつかめません  水は包むのです

    二つの手の中に  そぉっと大切に

 水のこころも  ひとのこころも




枕元で聞いた母の歌

日本人の声で日本の歌を

幼い頃から私は歌うことが好きでした。ヤン チャ坊主で外息で、その上にカン高い声が極立 っていましたから、おしゃべりしていないなら歌ってる、歌っていないならおしゃべりしてる、 というウルサさは、母の語り草になっています。
私の歌好きはその母親から来ています。

それこそ毎晩私たち姉弟が寝ている枕元で、縫針の手を休めることなく、いろんな歌を聞かせてく れました。童謡とか、昔から歌い継がれてきたものが多かったようですが、記憶に鮮明に残っているのは「♪笛や太鼓に誘わ れて、村の祭りに来てみ たが・・・」という悲しい歌です。

母がその 歌をうたい出すと、姉弟は平気で聞いているの に、私は決まって目に涙があふれてきて、それ がきまり悪くて、いつもふとんにもぐり込んで いました。

父親はバイオリニストでしたから、酒席では 「オーゼの死」とか「ローレライ」などの西欧ものか、軍歌を歌っていました。しかし子供に 歌って聞かせるということはありませんでした。

私はこれが幸いしたと思っています。と言いますのは、音楽の素養のない母が、自分の精神構造に合った日本の歌を、素朴な声そのままで歌ってくれましたから、歌の心は幼い私の胸にストレートに届いたのではないでしょうか。

日本の歌は日本人の本来の声で歌うこんな当 たり前のことが、日本の音楽界ではそうなっていないところに特別な事情があります。 日本の音楽教育は、明治政府の方針であった「西欧に追いつき追いこせ」に始まっていますから、当時の音楽家たちは イタリア人のベルカント唱法を最高のものと考えました。そしてその 発声をもって日本の歌も表現したのです。

ベルカント唱法はいわゆるオペラの発声です。口元は柔らかく、ノドの奥を大きく開いて、最大の呼気を使います。この発声で日本の歌をうたうとどうなるか。まず日本語がわからな い。日本人は緊張しやすい民族ですから、そのことばも口先を細かく働かせ、ノドもあまり開かずに、息も大きく使わずに発せられます。ベルカント唱法では、その微妙な緊張がコントロールできません。

次にイタリア人の開けっぴろげな声は、控え目を良しとする日本語の精神構造にそぐわない。あの大目玉と大口が個性的なソフィア・ロ ーレンが「♪叱られて、叱られて あの子は町におつかいに・・・」と歌う図を想像してみて下さい。おそらく彼女も表現がむずかしくて当惑してしまうでしょう。

それでは日本人の本来の発声で歌うにはどうすればいいか。自分の内からの声を出発点とすればいいのです。ボディートークの自然発声法で身も心もスッキリとさせておいて、「オーイ」でも「ワッ!」でも 何でもいいですから構えなしで、作ることなく、そのままで出た声から始めるのです。

このことは教育の原点だと思うのです。子供の内からの成長に合わせて食べること、立つ時期、しゃべる内容を考えていく。反対に、何ヶ月になったから離乳食にしなくっちゃ、とか、赤ち ゃんには幼児語を使わないで正しい日本語でしゃべりましょう、とかの発想は外の形から入っていく教育です。

子供がボール投げを覚える始まりは、子供の好きな格好で好きなようにたくさん投げ させる。そうすると子供はボールを投げる感覚を、からだの内部に素直な動きから身 につけていく。だから子供の投げたとこ がストライクと考える。

逆に外の形から入 る教育では、お父さんが構えているミットのところへ届けばストライク。そうすると 子供は内なる動きを歪めてボールを投げることを覚えてしまいます。

発声も全く同じです。自分が自然に出した声を良しとし、それを出発点に磨きをかければ自然発声法と言えますが、先に声の美しい見本があり、このような声を出しなさいと教えているのでは、自分ではない借り物の声をひたすら勉強することになってしまいます。

音程がよくつかまえられない人を通称オンチと言いますが、オンチ は音の高低が分からないのではないのです。その証拠に人の歌に関しては音の狂いがよく分かるのです。オンチはただ音程をとるノドの微妙な調整が難しいと言うことなのです。

オンチの矯正も内からの教育で入るとうまく行きます。まずオンチの人が、楽に出せる音の高さで長く発声します。「オー」でも「アー」 でも構いません。音が取れる人は、その声と同じ声を横でそっと出し て、オンチの人の声を支えます。

次にオンチの人が声の高さを変えて いきます。そういう練習を重ねると、オンチの人の声帯は安定して振動することを覚え、音量をコントロールできるようになるのです。誰もが自分 の声から出発をして「歌のある人生」を楽しみたいですね。




ストローでチュッチュッ、何だか美味しいね!!

ストローチュッチュッがお気に入り K君は3才になったピッカピカの保育園の一年生。朝になると「行かな い!」とむずがるものの、お母さんと保育園に行ってしまえばホイッと仲間の中に入って一日を過ごせる男の子です。 

通園し始めて2週間ぐらいして高熱になり、インフルエンザかな?と心配しましたが、次の日にはスーッと熱も下がり、お母さんは安心しました。けれど 熱を出した数日前から、お腹の調子が思わしくなく食欲も落ちていたので、朝食前とおやすみの前にあったかい牛乳を飲ませることにしました。

するとK君は、牛乳をまるでおっぱいを飲む時のような表情で、ストローで チュッチュッと吸い始めました。このストローチュッチュッがどうもお気に入りになった様子です。熱が下がった後もこのストロータイムは続いています。 「今までこんな事はなかったのですが、何故なんでしょう?」と、お母さんか ら電話での相談を受けました。

● 僕が開けたかったのに…

K君は生まれた時から、ボディートーク・マタニティ子育て教室に通ってい た、とてもプライドの高い男の子でした。ある時ペットボトルの蓋を開けよう としましたが、なかなかうまく開けることができません。傍らでそれを見てい たボディートーク指導者が、気を利かせて「ハイ!どうぞ」とその蓋を開け たとたん、突然「ワーッ!」と大声で泣き出しました。

「エッ!?どうしたの?」と大人達はびっくり。その頃のK君にとっては、 ペットボトルの蓋開けは、まだ新しい課題。それでもどうにか自分で工夫して やってみようと、一生懸命頑張っていたのです。大人にとっては、早く蓋を開けてお茶を飲ませてあげようという心づかいでやった事なのですが、K君は自分で蓋を開けて、自分で飲みたかったのです。

なのに蓋をとりあげられて、自分の出番なくして蓋はすでに開いてしまったのですから、悔しくて泣き出して しまったのです。

何でも大人と同じようにできるようになりたい。失敗したり、 できないところは見られたくない。《自分の力で、自分一人でできた》という喜びと誇りが、K君の次への向上心へと繋がっていくのです。

公園でスベリ台を見つけた時、すぐには近寄らず、遠くからお兄ちゃん達の滑るのをジーっと見ていて、誰もいなくなるとソーッと一人で確かめながら何回も滑る練習をする、慎重派タイプのK君です。

あれもこれも新しいことばかり、そんなK君をゆっくりと穏やかに見守ってくれていたお母さんとの生活から 一変して、新しい仲間との保育園の一日。赤ちゃんもいれば、年上のお姉ちゃ ん、お兄ちゃんもいっぱい。食事の時も、哺乳瓶からミルクを飲む赤ちゃんもいれば、マグカップからグイグイお水を飲む年上の子達もいます。見ること、 することが、次から次へと新しいことだらけで、K君の頭も心も体も大忙しです。

● 幼児がえり・赤ちゃんがえりは、大切な反応

新学期が始まる4月は、個人差はありますが 、子どもも大人も少なからず、K君と同じように環境の変化が大きな時期なのです。特に生命が繊細な幼い子どもの頃は、自分の体や心に大きな変化があったり、不調が起こると、内息になりがちになります。そしていろんな形で《幼児 がえり、赤ちゃんがえり》になることがあります。

外や内の大きな変化を受け止め、それに適 応していこうとするエネルギーがより必要となり、《内なるエネルギーを充実させていこうとする営み》が《幼児がえりや赤ちゃんがえり》になって表れているのです。

電池で動くおもちゃを考えてみると、よく分かります。動かせば動かすほど エネルギーが減っていくので、充電が必要になってくるというシステムです。 赤ちゃんが生きていくためのエネルギーは《おっぱい》ですが、それは単に栄養の補給だけでなく、お母さんのふんわりとした皮膚とのふれあい、匂い、優しい眼差し、あったかい息づかいなどを含めての、まさに心と体のオアシスで もあるのです。

K君がミズカラ選んだストローでチュッチュッという行為は、一気にコップ から飲むのと違って、おっぱいを吸っていた時の唇や舌の使い方に近いのです。 K君の体は無意識の中にそれを知っていて、自分の心と体のオアシスへ行って、 新しい保育園生活に必要なエネルギーを補給しようとしていた訳です。

また、 朝起きたばかりの時や、夜、少し眠くなってきた時は副交感神経の働きが優位になり、昼間の緊張が緩んでいるので、《赤ちゃんのような心と体》になりやすくなる、オアシスタイムでもあったのです。自分でオアシスを探し当てたK 君に、「いいぞK君!」と何だか誉めてあげたくなりました。

● 一緒にストロータイムを楽しもう

「K君は、保育園や家の外ではストローでチュッチュッはしないでしょう? お家の中だけ、しかもお母さんと一緒の時だけそうするのではありません か?」と尋ねると、「ハイ、そうです」との答え。「やっぱり。K君らしい ですね」と、思わず微笑んでしまいました。他の人の前では、いつもカッコイ イ、立派な男の子でいたいK君なのです。

お母さんと二人で、K君の成長ぶりを喜び合いながら、「できれば、お母さんもK君と一緒にストローで飲んだらどうでしょう?恋人のように見つめ合いながら、『ストローで飲むと何だか美味しいね』って言ってみるのもいいか も?」

ちょっとシャイな表情でニッコリするK君の笑顔が浮かんできそうです。 “さり気なく、子どもの心に楽しみながら寄り添っていく” お母さんに とっても、きっと素敵なひとときになれることでしょう。




歌の奥に潜む息

披露宴に失恋の歌?

音楽大学の学生たちは歌のレッスンとして、まずイタリア古典 歌曲を学びます。発声の素直さや明るさを得るのに最適だと考え られているからです。

その中に「Piacer d’amor」という名曲があります。この題名 は「愛のよろこび」と訳されていますが、歌詞の内容は「愛の喜びなんて結局のところ儚いものだ」というため息まじりの失恋を歌ったものです。

私がかつて友人の結婚式の司会をした時のことです。新婦は音楽大学出身のピアニストでしたから、披露宴は音楽で盛り上げようということになりました。 そこで出席する音楽家たちと 予め打合せをしました。その中の一人が「Piacer d’amor」を歌いたいと言ったのです。 私は「えっ、どうして?」と思わず聞き返しました。結婚式 にふさわしい歌とは思えませんから、「この歌は新婦と何か特別の思い出でもあるの?」と尋ねたところ、「いいえ。でも‟ 愛のよろこび″だからいいんじゃないの?」という答え。

彼女はやがて失恋の歌だと知って別の歌を選びましたが、歌詞の内容を考えないでイタリア歌曲を歌っている人は結構多いのです。音楽大学で音楽の内容をとばしてしまって、声がどれだけきれいに響くか、低音から高音まで均質かどうか、発音が明確か、などの発声のみに明け暮れたせいで す。だからイタリア語が意味を伝える言葉にならなくて、単なる発音記号となっているのです。

実は歌のメロディやリズム、歌詞の奥にはその歌の息が潜んでいるのです。その歌とは切っても 切れない息が存在しているのです。否、むしろその息によって歌が成り立っていると言ってもいい。 具体的に説明しましょう。
「♪ぞうさん ぞうさん、 おはなが 長いのね。そうよ、母さんも長いのよ」 この歌は3拍子です。でも素直に「ぞうさん、ぞうさん」と口に出してみると2拍子になるでしょう?

どうして作者が3拍子にしたかと言いますと、この歌のテーマが、ぞうさんのお鼻は「な がーい」と言いたいからです。
両手をゆっくり広げながら「ながーい」と言ってみて下さい。あっさりと言わないで、ねばって言ってみて下さい。暖かい息にするともっといいですね。その息がこの歌の土台となる息です。ですから 「♪ぞーうさん」と歌い出した時から、鼻は「ながーい」という内容を表現しているのです。

そう思って歌うと聞いている子供の心と体に歌がストンと入り込むのです。もうひとつ例を出しましょう。

「♪この道は いつか来た道  ああ、そうだよ アカシヤの花が 咲いてる」 北原白秋と山田耕作の名コンビによる日本人の愛唱歌ですね。「この道」の土台になる息は何ですか?

この歌はいくつの息から出来ていますか? 答えは3つです。

歌の裏にある息を次のように探ってみるとわかります。
一行目は「この道は、いつか来た道?」(じゃないか なぁ)という疑問です。この風景はどこか見覚えがあるぞ、 ということですね。だから息としては「アレッ?」というよ うにまとめることができるでしょう。

二行目はハッと思い当たって深い納得、「ああ、そうだ よ」です。息はそのまま「アア」とまとめましょう。

三行目 はかつて「この道」に来た情景を思い描いて懐かしんでいるところです。だから息としては「フンフン」と楽しくうなづ いて下さい。

このように「この道」をとらえると、この歌は「アレッ?」 「アア」 「フンフン」という息で成立していると説明できるでしょう。そうすると自ずと表現はしばられてきます。 「この道はいつか来た道?」のあとの息の、疑問形からくる緊張感、突如ひらめいて、深く、大きく溜め息をつく「ああ、そうだよ」そして懐かしく軽やかな息の「アカシヤの花が咲いてる」

みなさんも是非、最初に息を練習して、それから歌ってみて下さい。ただきれいな声で同じよう に歌っているのでは「この道」の歌の素晴らしさは味わえないものですから。




ママにハートのリュックあげる

Nちゃんのママは、出産の間近まで大好きなバレエを踊っていました。ママも3 才の頃から踊り始めましたが、Nちゃんはお腹の中から踊っていて、生後4ヶ月の赤ちゃんで、初の舞台デビューをしました。赤ちゃんを囲んでの、ホットファミリーな振り付けをしました。

今年の舞台では、ママが“オズの魔法使い”の、かかし役に選ばれたので、バレエ 作品ミュージカルと、ともに何回もの早替えで大変で、3才になろうとするNちゃんのお世話は、ほとんど出来ない状態でした。

それに加え、諸事情で急にバレエの指導者的立場に立たされることになったママは、出演者の諸々のお世話役も一緒に担当することになりました。練習に来る時は、いつも両手両腕に大荷物でいっぱい、 帰るのも戸締りをしていつも一番後でした。

Nちゃんはそのママとずっと一緒に行動していました。ある夜のこと、遅くの練習も終わり、私がお手洗いから戻って、みんな帰ってしまったはずの練習会場の扉を開けると、Nちゃんがママと 一緒に、その小さいな手で机をひとつひとつ、きちんと並べそろえていました。

Nちゃんのママは幼い頃からよく踊れる子どもでした が、「舞台で輝くには、楽屋や人の見ていない所でも輝く人でなければ本物ではない」というモットーの下に育てられました。

沢山の子どもの中でも、彼女は嫌な顔ひとつせず、人のいない所でいつもガムテープでゴミを拾ったり、お掃除をあたり前にやっている子どもの一人でした。私はそのことを、あえて誉めることなく、黙って見つめ続けてきました。誉められるからするのではなく、評価のない所でも“真心”で動ける子どもに成長して欲しかったからです。

舞台が間近になったある日のこと、Nちゃんママが私にこういう報告をしてくれ ました。「先生、この前とてもとても嬉しいことがあって、思わずNを抱きしめて、 泣いてしまいました」と。

—- Nちゃんが何かセッセと一生懸命作っているので、 「何をしているの?」と尋ねたら、「ハートのリュックを作っているの」と答えるので、「それ、どうするの?」と聞くと、「ママがいっぱい頑張っているから、ママ にもこのハートのリュックをあげるの」と言ってくれた — という。

思わず私も涙が出てきてしまいました。(オズの魔法使いで、ハートのリュッ クをもらえるのはブリキマンなので、Nちゃんはママにもあげたかったのですー 下記に補足あり)ゆりかごの中から踊ってきた赤ちゃんが、いつの間にか、このように心も体も成長していたのです。

舞台の終わった日、打ち上げも終わり玄関前に積まれた沢山のゴミ袋を、誰がどのように分担して持って帰ろうか、と主要メンバーで話し合っていました。とこ ろが、サッサとNちゃんが自分の背丈ほどもある大きなゴミ袋を引きずりながら、 運んでいこうとしているのです。

「Nちゃん、ありがとうね。今日はみんなが持って帰るから、Nちゃんは持って帰らなくてもいいのよ」Nちゃんは納得して、今度は自分の大きな荷物を持ち直し、ママの車へと元気よく歩いていきました。

ボディートークの体ほぐしも、門前の小僧で、とっても上手に身につけたNちゃん。ママの後ろ姿をしっかり見ながら、大きく成長していっています。

私が30数年も舞台を続けていけるのは、照明もメーキャップも衣装もないけ れど、このような舞台の裏に展開される、熱い想いのもうひとつの美しいドラマを 見ることができるからかも知れません。

ボディートークのマタニティや子育ての考え方のひとつに、「まず、ママの心と 体が楽になり、弾み、幸せになるようにしましょう。 ママの生命が膨らみ、輝き始めれば、赤ちゃんや子どもの生命も“オノズ”と輝いてきますよ」があります。

晴れ渡った明るい秋の月夜、その月の光を浴びながら、元気に帰っていくNちゃんとママの後ろ姿の輝きを、嬉しい思いで消えるまで見送っていました。

* ミュージカル『オズの魔法使い』は、子ども達に、 “知恵と勇気と心の大切さ”を伝えるために作られた作品です。大魔女イブリ-ーンをみんなの力で倒し た後、オズの魔法使いからご褒美に、知恵の欲しかっ たカカシは知恵の象徴『帽子』を、勇気の欲しかっ たライオンは『マント』を、そして心が欲しかった ブリキマンには『ハートのリュック』を貰えるシー ンが演出されています。




出る声と出す声 まず出る声を出してみよう

自由表現法

生命が弾む

劇の中では自分でない役ができるからうれしい、という人がいます。しかし本当は自分の中にない演技は出来ないのです。イジワルな魔法使い役であれ、可憐なお姫さま役であれ、頑固なイギリス紳士役であれ、更には猿や鹿の役であれ、全て自分の体や心の中に潜んでいるものを引き出して、演技として実現しているのです。

その意味で”オノズ カラ”有しているものを”ミズカラ”の表現にまで高める行為が演技である、と言えるでしょう。

頃から甘ったるい声をしている人は、甘える役はこなし易いでしょう。足をドンドン踏み鳴らして歩く人に、気弱く尻込みする役は不適です。そうなりがちだということは“オノズカラ”そうなる道がついているということです。

表現は、そうなりがちだという本質を真正面から認めて、その方向から進めていくと豊かになっていきます。 歌で言えば、か細くとぎれとぎれの息の人は内息の祈りの歌から入るのがいいでしょう。

大声で元気に満ちあふれている人はカンツォーネ、物静かで暖かい息の人は子守歌あたりから始めると声が出易くなるのです。音楽大学では何でもかでもイタリア古典歌曲、例えば「カーロ・ミオ・ベン」などから勉強を始めるのが通例ですが、 一人一人の声の成長にもっと着目すれば、学生たちも才能を伸ばしやすいだろうに、と 思うのです。

音楽の話のついでに楽器にも一言。バイオリンは子供の体には子供の大きさ、大人に は大人にと、およそ6段階ほどのサイズがあります。子供の成長に従って楽器の大きさを替えていくので無理はないのですが、ピアノとなると大変です。

今、みなさんが奏いているピアノは大人用の大きさです。しかもヨーロッパの男性の手に合わせてあるのです。だから日本人の平均的な女性の手にとっても大き過ぎるので す。まして子供の手にとっては、小学生の男の子が貴の花のマワシをつけているみたいなものです。

そんなに大きな鍵盤ですから、子供が子供の力で自然にピアノを奏くと可愛い音しか出ないのです。それを大人が奏くように音を出させようとするものですから、子供は力をいっぱい入れることを強要されます。指が変形してしまっているピアニストを私は何人も知っていますし、またそういう人は音楽を苦しんで勉強してきた人です。

では子供のピアノ教育はどうすればいいか。子供サイズのピアノがそのうちできるでしょうが、それまでは子供の素直な音で満足することです。可愛いベートーベンでいい のです。速く奏けなくていいのです。

決して大人の真似事をさせないことです。子供が自分の体に矛盾なく演奏を楽しむようになると、音楽の心はグングンふくらんでいくで しょう。

声も音もまず「出る」というのが「オノズカラ」の道です。「出る」声や音をまずよしとして、それにもっとも近いイメージの表現を設定して練習を始めましょう。劇もいわゆるハマり役からこなしていくのがいいでしょう。もともと「出る」声を洗練させて「出す」というのが「オノズカラ・ミズカラ」の道です。

自由表現法その1
「瞬間彫刻」 – 全身表現に気付く

ボディートークでは、自分のうちに潜んでいるものが思わず表現となって外へ出てしまうという方法を大切にしています。 誰でも人の目を意識しているといつまで経っても自分を出せません。それが一瞬だと考える間がないのでポロッと出てしまうのです。

彫刻家はモデルにポーズをとらせて像を作っていきますが、そのポーズを生み出すことが大変にセンスの要ることです。

よく駅前に「希望」とか「友愛」とかの題をつけた彫刻を見かけますが、 ポーズがあまりにわざとらしく、安易なものが多い。そこへくると写真家は表情や動きの生き生きとした瞬間をとらえています。

ボディートークの「瞬間彫刻」は一瞬、ポーズをとる方法です。

1 メンバーが歩いたり、走ったり、寝ころがっている中で、リーダーが「あ、  押しピンを踏んだ」 とか「雨が降ってきた」とか、「忘れ物をした」「犬がやってくる」「懐かしい友達が手をふっ ている」などの題を出します。

2 その指示を受けてメンバーは即座に自分のイメージのままに演じます。

3 演技が始まったとたんにリーダーは笛を吹いてストップをかけます。

4 メンバーはその瞬間、そのまま姿勢や表情でポーズをつくります。 リーダーは生き生きとした彫刻を見つけ、他のメンバーを呼んで鑑賞します。