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枕元で聞いた母の歌

日本人の声で日本の歌を

幼い頃から私は歌うことが好きでした。ヤン チャ坊主で外息で、その上にカン高い声が極立 っていましたから、おしゃべりしていないなら歌ってる、歌っていないならおしゃべりしてる、 というウルサさは、母の語り草になっています。
私の歌好きはその母親から来ています。

それこそ毎晩私たち姉弟が寝ている枕元で、縫針の手を休めることなく、いろんな歌を聞かせてく れました。童謡とか、昔から歌い継がれてきたものが多かったようですが、記憶に鮮明に残っているのは「♪笛や太鼓に誘わ れて、村の祭りに来てみ たが・・・」という悲しい歌です。

母がその 歌をうたい出すと、姉弟は平気で聞いているの に、私は決まって目に涙があふれてきて、それ がきまり悪くて、いつもふとんにもぐり込んで いました。

父親はバイオリニストでしたから、酒席では 「オーゼの死」とか「ローレライ」などの西欧ものか、軍歌を歌っていました。しかし子供に 歌って聞かせるということはありませんでした。

私はこれが幸いしたと思っています。と言いますのは、音楽の素養のない母が、自分の精神構造に合った日本の歌を、素朴な声そのままで歌ってくれましたから、歌の心は幼い私の胸にストレートに届いたのではないでしょうか。

日本の歌は日本人の本来の声で歌うこんな当 たり前のことが、日本の音楽界ではそうなっていないところに特別な事情があります。 日本の音楽教育は、明治政府の方針であった「西欧に追いつき追いこせ」に始まっていますから、当時の音楽家たちは イタリア人のベルカント唱法を最高のものと考えました。そしてその 発声をもって日本の歌も表現したのです。

ベルカント唱法はいわゆるオペラの発声です。口元は柔らかく、ノドの奥を大きく開いて、最大の呼気を使います。この発声で日本の歌をうたうとどうなるか。まず日本語がわからな い。日本人は緊張しやすい民族ですから、そのことばも口先を細かく働かせ、ノドもあまり開かずに、息も大きく使わずに発せられます。ベルカント唱法では、その微妙な緊張がコントロールできません。

次にイタリア人の開けっぴろげな声は、控え目を良しとする日本語の精神構造にそぐわない。あの大目玉と大口が個性的なソフィア・ロ ーレンが「♪叱られて、叱られて あの子は町におつかいに・・・」と歌う図を想像してみて下さい。おそらく彼女も表現がむずかしくて当惑してしまうでしょう。

それでは日本人の本来の発声で歌うにはどうすればいいか。自分の内からの声を出発点とすればいいのです。ボディートークの自然発声法で身も心もスッキリとさせておいて、「オーイ」でも「ワッ!」でも 何でもいいですから構えなしで、作ることなく、そのままで出た声から始めるのです。

このことは教育の原点だと思うのです。子供の内からの成長に合わせて食べること、立つ時期、しゃべる内容を考えていく。反対に、何ヶ月になったから離乳食にしなくっちゃ、とか、赤ち ゃんには幼児語を使わないで正しい日本語でしゃべりましょう、とかの発想は外の形から入っていく教育です。

子供がボール投げを覚える始まりは、子供の好きな格好で好きなようにたくさん投げ させる。そうすると子供はボールを投げる感覚を、からだの内部に素直な動きから身 につけていく。だから子供の投げたとこ がストライクと考える。

逆に外の形から入 る教育では、お父さんが構えているミットのところへ届けばストライク。そうすると 子供は内なる動きを歪めてボールを投げることを覚えてしまいます。

発声も全く同じです。自分が自然に出した声を良しとし、それを出発点に磨きをかければ自然発声法と言えますが、先に声の美しい見本があり、このような声を出しなさいと教えているのでは、自分ではない借り物の声をひたすら勉強することになってしまいます。

音程がよくつかまえられない人を通称オンチと言いますが、オンチ は音の高低が分からないのではないのです。その証拠に人の歌に関しては音の狂いがよく分かるのです。オンチはただ音程をとるノドの微妙な調整が難しいと言うことなのです。

オンチの矯正も内からの教育で入るとうまく行きます。まずオンチの人が、楽に出せる音の高さで長く発声します。「オー」でも「アー」 でも構いません。音が取れる人は、その声と同じ声を横でそっと出し て、オンチの人の声を支えます。

次にオンチの人が声の高さを変えて いきます。そういう練習を重ねると、オンチの人の声帯は安定して振動することを覚え、音量をコントロールできるようになるのです。誰もが自分 の声から出発をして「歌のある人生」を楽しみたいですね。




歌の奥に潜む息

披露宴に失恋の歌?

音楽大学の学生たちは歌のレッスンとして、まずイタリア古典 歌曲を学びます。発声の素直さや明るさを得るのに最適だと考え られているからです。

その中に「Piacer d’amor」という名曲があります。この題名 は「愛のよろこび」と訳されていますが、歌詞の内容は「愛の喜びなんて結局のところ儚いものだ」というため息まじりの失恋を歌ったものです。

私がかつて友人の結婚式の司会をした時のことです。新婦は音楽大学出身のピアニストでしたから、披露宴は音楽で盛り上げようということになりました。 そこで出席する音楽家たちと 予め打合せをしました。その中の一人が「Piacer d’amor」を歌いたいと言ったのです。 私は「えっ、どうして?」と思わず聞き返しました。結婚式 にふさわしい歌とは思えませんから、「この歌は新婦と何か特別の思い出でもあるの?」と尋ねたところ、「いいえ。でも‟ 愛のよろこび″だからいいんじゃないの?」という答え。

彼女はやがて失恋の歌だと知って別の歌を選びましたが、歌詞の内容を考えないでイタリア歌曲を歌っている人は結構多いのです。音楽大学で音楽の内容をとばしてしまって、声がどれだけきれいに響くか、低音から高音まで均質かどうか、発音が明確か、などの発声のみに明け暮れたせいで す。だからイタリア語が意味を伝える言葉にならなくて、単なる発音記号となっているのです。

実は歌のメロディやリズム、歌詞の奥にはその歌の息が潜んでいるのです。その歌とは切っても 切れない息が存在しているのです。否、むしろその息によって歌が成り立っていると言ってもいい。 具体的に説明しましょう。
「♪ぞうさん ぞうさん、 おはなが 長いのね。そうよ、母さんも長いのよ」 この歌は3拍子です。でも素直に「ぞうさん、ぞうさん」と口に出してみると2拍子になるでしょう?

どうして作者が3拍子にしたかと言いますと、この歌のテーマが、ぞうさんのお鼻は「な がーい」と言いたいからです。
両手をゆっくり広げながら「ながーい」と言ってみて下さい。あっさりと言わないで、ねばって言ってみて下さい。暖かい息にするともっといいですね。その息がこの歌の土台となる息です。ですから 「♪ぞーうさん」と歌い出した時から、鼻は「ながーい」という内容を表現しているのです。

そう思って歌うと聞いている子供の心と体に歌がストンと入り込むのです。もうひとつ例を出しましょう。

「♪この道は いつか来た道  ああ、そうだよ アカシヤの花が 咲いてる」 北原白秋と山田耕作の名コンビによる日本人の愛唱歌ですね。「この道」の土台になる息は何ですか?

この歌はいくつの息から出来ていますか? 答えは3つです。

歌の裏にある息を次のように探ってみるとわかります。
一行目は「この道は、いつか来た道?」(じゃないか なぁ)という疑問です。この風景はどこか見覚えがあるぞ、 ということですね。だから息としては「アレッ?」というよ うにまとめることができるでしょう。

二行目はハッと思い当たって深い納得、「ああ、そうだ よ」です。息はそのまま「アア」とまとめましょう。

三行目 はかつて「この道」に来た情景を思い描いて懐かしんでいるところです。だから息としては「フンフン」と楽しくうなづ いて下さい。

このように「この道」をとらえると、この歌は「アレッ?」 「アア」 「フンフン」という息で成立していると説明できるでしょう。そうすると自ずと表現はしばられてきます。 「この道はいつか来た道?」のあとの息の、疑問形からくる緊張感、突如ひらめいて、深く、大きく溜め息をつく「ああ、そうだよ」そして懐かしく軽やかな息の「アカシヤの花が咲いてる」

みなさんも是非、最初に息を練習して、それから歌ってみて下さい。ただきれいな声で同じよう に歌っているのでは「この道」の歌の素晴らしさは味わえないものですから。




出る声と出す声 まず出る声を出してみよう

自由表現法

生命が弾む

劇の中では自分でない役ができるからうれしい、という人がいます。しかし本当は自分の中にない演技は出来ないのです。イジワルな魔法使い役であれ、可憐なお姫さま役であれ、頑固なイギリス紳士役であれ、更には猿や鹿の役であれ、全て自分の体や心の中に潜んでいるものを引き出して、演技として実現しているのです。

その意味で”オノズ カラ”有しているものを”ミズカラ”の表現にまで高める行為が演技である、と言えるでしょう。

頃から甘ったるい声をしている人は、甘える役はこなし易いでしょう。足をドンドン踏み鳴らして歩く人に、気弱く尻込みする役は不適です。そうなりがちだということは“オノズカラ”そうなる道がついているということです。

表現は、そうなりがちだという本質を真正面から認めて、その方向から進めていくと豊かになっていきます。 歌で言えば、か細くとぎれとぎれの息の人は内息の祈りの歌から入るのがいいでしょう。

大声で元気に満ちあふれている人はカンツォーネ、物静かで暖かい息の人は子守歌あたりから始めると声が出易くなるのです。音楽大学では何でもかでもイタリア古典歌曲、例えば「カーロ・ミオ・ベン」などから勉強を始めるのが通例ですが、 一人一人の声の成長にもっと着目すれば、学生たちも才能を伸ばしやすいだろうに、と 思うのです。

音楽の話のついでに楽器にも一言。バイオリンは子供の体には子供の大きさ、大人に は大人にと、およそ6段階ほどのサイズがあります。子供の成長に従って楽器の大きさを替えていくので無理はないのですが、ピアノとなると大変です。

今、みなさんが奏いているピアノは大人用の大きさです。しかもヨーロッパの男性の手に合わせてあるのです。だから日本人の平均的な女性の手にとっても大き過ぎるので す。まして子供の手にとっては、小学生の男の子が貴の花のマワシをつけているみたいなものです。

そんなに大きな鍵盤ですから、子供が子供の力で自然にピアノを奏くと可愛い音しか出ないのです。それを大人が奏くように音を出させようとするものですから、子供は力をいっぱい入れることを強要されます。指が変形してしまっているピアニストを私は何人も知っていますし、またそういう人は音楽を苦しんで勉強してきた人です。

では子供のピアノ教育はどうすればいいか。子供サイズのピアノがそのうちできるでしょうが、それまでは子供の素直な音で満足することです。可愛いベートーベンでいい のです。速く奏けなくていいのです。

決して大人の真似事をさせないことです。子供が自分の体に矛盾なく演奏を楽しむようになると、音楽の心はグングンふくらんでいくで しょう。

声も音もまず「出る」というのが「オノズカラ」の道です。「出る」声や音をまずよしとして、それにもっとも近いイメージの表現を設定して練習を始めましょう。劇もいわゆるハマり役からこなしていくのがいいでしょう。もともと「出る」声を洗練させて「出す」というのが「オノズカラ・ミズカラ」の道です。

自由表現法その1
「瞬間彫刻」 – 全身表現に気付く

ボディートークでは、自分のうちに潜んでいるものが思わず表現となって外へ出てしまうという方法を大切にしています。 誰でも人の目を意識しているといつまで経っても自分を出せません。それが一瞬だと考える間がないのでポロッと出てしまうのです。

彫刻家はモデルにポーズをとらせて像を作っていきますが、そのポーズを生み出すことが大変にセンスの要ることです。

よく駅前に「希望」とか「友愛」とかの題をつけた彫刻を見かけますが、 ポーズがあまりにわざとらしく、安易なものが多い。そこへくると写真家は表情や動きの生き生きとした瞬間をとらえています。

ボディートークの「瞬間彫刻」は一瞬、ポーズをとる方法です。

1 メンバーが歩いたり、走ったり、寝ころがっている中で、リーダーが「あ、  押しピンを踏んだ」 とか「雨が降ってきた」とか、「忘れ物をした」「犬がやってくる」「懐かしい友達が手をふっ ている」などの題を出します。

2 その指示を受けてメンバーは即座に自分のイメージのままに演じます。

3 演技が始まったとたんにリーダーは笛を吹いてストップをかけます。

4 メンバーはその瞬間、そのまま姿勢や表情でポーズをつくります。 リーダーは生き生きとした彫刻を見つけ、他のメンバーを呼んで鑑賞します。




優しくしてもらうと優しくなれる

|ボディートーク自由表現法

生命が弾む

毎年恒例のクリスマス公演「星の王子さま」でチビッ子ぎつねを演じたのは4才になるカナエちゃんです。いつも瞳をキラキラと輝かせてすばしっこく走り回るのでみんなの人気者。なかなか勝気な女の子です。

ミュージカルでは舞台いっぱいに拡がった大きな網に、 一人で捕まえられてしまう役ですが、練習ではいつも遊びまわっていて、肝心な時には練習室にも姿がなくて、他の子が代役をしているという状態でした。ただし代役が演じているのをひそかにどこがで見ているのでしょうね、本番 だけはしっかりと自分で演じました。

そんなカナエちゃんですが、幼稚園ではみんなの面倒をよくみるそうです。 4才になった子供たちは年中組に昇格しますが、新しく3才の幼児たちが年少組として入園してきます。そうすると年中組は競って年少さんのお世話をします。

でも、すぐに飽きてしまいます。しかしカナエちゃんだけは ずっと年少さんのお世話を続けているそうです。
ある時、幼稚園の先生がお母様にたずねました。「一人っ子のカナエちゃんがここまで小さい子の面倒を見るのは、どこがで大きい人たちにすっごく可愛がってもらっているのではないですか?」

お母さんは即座に「子供ミュージカルに通っています。」と、練習の様子を話したそうです。「充分にやさしくしてもらってると、自分も他人にやさしくなれるんですね、」というのがお母様の感謝の弁です。

表現にも同じことが言えます。自然で暖かい味のある声や表現が囲りにいっぱいあると、自分自身も自然に穏やかに出しやすくなります。一日中怒鳴られっぱなしの子供はどうしても息を詰めて固い表情になりますし、表現をさせても攻撃的で囲りをイライラさせます。

イジメの問題もそういうところから発生するのでしょう。家でも学校でも冷たい息で押さえ込まれている子供は、どこかで発散しないと自分自身の心や体を保てないものだから、まず自分に受けた毒をぶつけやすい相手に向けるのでしょう。その相手という のが大人に従順なオリコウちゃんであったり、攻撃してこないおとなしい子であったりするのです。

そういう意味もあってボディートークでは表現の前に体ほぐしをします。まず自分の 中に潜んでいる毒の息を抜き、しこりやゆがみを取り去ってスッキリしておくことが前提です。その上で思う存分、自分自身をさらけ出すことにしています。そうすると弾む生命の、自然で豊かな自分を表現するようになります。

自然表現法、
「スカーフ」―― 流れに身を委ねる

絹のスカーフは手にしてもほとんど重みを感じません、また柔らかく首を包みこんでくれます。そんなスカーフを頭上に持ち上げてフワッ~と広げ、ゆらめくように色々なうねりを見せながら舞い降りていきます。

この美しく流れるゆらめきのイメージを自分の体で表現してみましょう。飛び上がっ た時の体の揺れに素直に身を委ねユラユラと床に流れ込み、体の端まで充分に降ろして、最後はゆったりと寝てしまいます。

・イメージを体で作れない人は実際にスカーフを放りなげて遊んで見るのもいいでしょう。

また、体でイメー ジを作るにはちょっと軽く何度も跳びはねて、その勢いの中で両手を横に上げてみて下 さい。やがて重さを感じさせない動きが生まれるでしょう。

よろこびの気持ちをふくらませていると、本当によろこびがやってくるように、「スカーフ」の動きを楽しんでいると、しなやかで軽やかな身のこなしが自然に自分の日常 の動きとなり、例え外で転んでもフワッと柔らかく着地するでしょう。




心も体も丸ごとで味わう

本物は体が納得する

私の子供時代にどうしても腑に落ちない歌が2つあっ た。一つは小倉百人一首の持統天皇の和歌である。

  春過ぎて  夏来にけらし  

   白妙の 衣干すてふ   天の香具山

問題はこの歌の解釈である。国語の先生によると、 意は「いつまでも春だと思っていたのに気がつくと夏が来たんだなあ。香具山のふもとに人々が夏服の白い衣を干しているよ」というふうになる。どの参考書もこれと似たりよったりの ことが述べられていた。

しかし、この解釈が私 にはピンと来ない。一体どこに歌としての面白さがあるのか。名歌だと先生は言うけれど、どこがいいのか。 詩的な表現のきらめきが全く感じられない。

疑問が解けぬまま受験時代が過ぎ、教師となってし ばらくしてテレビのドキュメントに一人の老人のことが取り上げられた。この人は 壬申の乱を実際に自分が歩いて確かめようとしていたのだが、彼の説によると天の香具山は現在の奈良の香具山ではなく、白山のことではないか、というのである。

白山だとすると、歌の解釈はガラリと変わる。即ち、この山の頂上は富士山のよ うに夏以外は年中雪をかぶっている。大意はこのようになる。「いつものように白山をながめてみると、アレ? 今日は頂に雪がない。ああ、いつの間にか春が過ぎて夏になったんだなあ。白山が雪の白い衣をどこかへ干しに行ったよ」

目の覚める思いだった。頂の雪が消えるのを、山が白い衣を干しに行ったとイ メージした感性は、現代にもそのまま通用するモダンでスマートな表現だし、それで夏の到来を知るという新鮮な驚きは、一字一句無駄のないこの歌に躍動している。 見事な作品だと私は脱帽の思いであった。

芸術作品は、心と体と頭がひとつになって味わえるものだと私は考えている。頭では理解でき、感心したとしても心や体が喜んでいないというのでは、芸術的価値の低 い作品だと思う。

腑に落ちるというのは、体のレベルで納得したということである。心うたれるという感動は、心の奥底から感情を揺すぶられるということである。私は「春過ぎて・ ・・』の歌をいっぺんに好きになってしまった。

子供時代に腑に落ちなかった、もうひとつの歌は「夏の思い出」である。「夏が 来れば思い出す・・・」という、誰もが口ずさむ日本の代表的な歌である。この歌は体のレベルで受け付けなかった。

何がそうさせたのか? テンポである。作曲者の速度指定は「ゆっくりと」である。しかし女性合唱などで「夏が来れば思い出 すと歌い出す、ほぼこのあたりで子供の私はもう退屈し始め、言いしれぬ気だるさを覚えていた。

歌詞は「はるかな尾瀬遠い空」と続く。頭の理解から進めよう。「思い出す」
のは「尾瀬」である。するとこのフレーズは「尾瀬」という歌詞に向かって息を高めていかねばなら ない。ところがゆっくりと歌い出すと、「尾瀬」に来るまでに「思い出す」で息が落ちてしまうのであ る。そうすると何を思い出すのかがわからないので 何とも間の抜けた言葉となってしまうのである。

解決方法は如何に? 2つある。ひとつはよほどの長い息と精神的緊張を持って「尾瀬」をエネルギーの頂点にすることである。もうひとつは軽い息であっさりと速い目に歌い出すことである。そして頂点の「尾瀬」でゆったりとテ ンポを落とせばいい。

私は後者の表現法を勧める。何故ならこの歌は大きな息の表現をすると、内容と 合わなくなるからである。ふと足下に目をうつすと水バショウの花が可憐に咲いていて、思わずうっとりと夢みるという愛らしい優美な歌である。

だから「水バショウの花が咲いている」というところは秘やかな息で自分に向かってささやくように 歌うのである。決して大きく歌って他人に水バショウを見においでと誘うところではない。

私のいうように少し速い目に歌い始めると、曲想がスーッと自然に湧いてきて、 この名歌を納得できるだろうと思う。是非皆さんも、この場でそっと口ずさんでい ただきたい。




自然で素直な声

全身を柔らかくして発声を

テレビの声は固い

テレビをつけっ放しにして他の事などをしていると、 妙にソワソワとして腰が落ちつかない。ハッと気がつい てテレビを消すとホッと息が降りるのを感じる。そんな経験を誰しも持っているだろう。

アナウンサーやタレントなどが、とりとめもなくおしゃ べりをしたり笑ったりする声はアッピールが強いのだ。 そのアッピールは積極的な息の押し出しとテンポの.. 語り口、そして声質の高さや固さからくる。その声はテ レビのスタジオでは似つかわしいのかもしれないが、少 なくとも日常の家の空気 には馴染まないから落ち着かないのだ。

一般にはアナウンサーの声は良い声だと思われ ているので、その声は固い、と私が言うと、アレッ?と思う人もあるだろう。しかしボディートークの見地からすると確かに彼らの声は固く感じられる。彼らの発声練習が固い声を作っているからだ。

アナウンサーの発声練習は演劇の方法と同じである。演劇はもともとマイクなし で多くの観客に聞こえるようにセリフをしゃべらなければならなかったので、 共鳴を多くして強い響きを必要とした。

それで息を口内へ強く送りこむために腹式 呼吸を多く使い、横隔膜をしっかりと動かそうと考えて腹筋を鍛える方向へと進ん でいった。「アエイウエオ・アオ、 カケキクケコ・カコ・・・」というような言葉を、大声で一語はっきりとて、しかもその毎に腹筋を使って強く素早くおな かをへこめる、という練習がその代表的なものである。

だいたい「ア・エ・イ・オ・ウ」という順番からして言葉に対する捉え方が狭いと私は思う。本来は「アイウエオ」という順番が自然なのである。これは全身を柔らかくして一語づつ長くのばしてみるとよくわかる。

即ち「アー! は体の上方に響くのだ。それに対して「オー」は下方に響く。「アイウエオ」は全身の上方から下方へ響きが移っていく順番なのだ。

「アエイオウ」は口の開き方の順番である。「ア」が大きく「工」は少しせばめ て横に開き、それを更に狭めると「イ」になる。唇を寄せて口の開きを小さくすれば「オ」になり、一番口をすぼませれば「ウ」になるという具合である。

私は「声の文化」として、その声が私たちの心を穏やかにし、体を楽にさせ、ま わりの犬や猫も含めて社会を平和にさせるものを探究したい。そのためには腹式呼吸にこだわることなく、全身を素直に豊かに使った全身呼吸や日本語として自然に響く声のための発声プログラムを開発し、提案していこうと思う。

発声練習その1

「まいまい」 ―柔らかい声で話すためには 下の詩の「まいまい」はカタツムリのことです。語呂合わせみたいで調子がいいですが、一字一句ていねいに読んでいきますと、ちゃんと意味が理解できます。一

1行目は「カタツムリは舞いを舞わないだろう」ということです。あとはこうなります。「カタツムリの上手な舞いをもう舞わないだろう。カタツムリは目まいの病気なので、カタツムリへの毎度毎度のお見舞いをかかさないでおこう」

発音練習としてはまず普通に「まいまい」と言っ てください。特別に口を大きく開いたり、構えたり する必要はありません。日本語として当たり前に「まいまい」と聞こえればいいのです。 欧米の言葉はノドの奥深くから押し出すようにして発音しますが、日本語は息を スッと口内に運んで、口の前方で言葉を作ります。

従って子音の「M」も母音の 「A」も軽く発音して下さい。
「まいまい」の詩はなめらかに続くように練習して下さい。電話がかかってきた 時もこの詩を言ってから受話器を取るといいでしょう。

まいまいは

まいまうまい

まいまいの うまいまい

もうまうまい

まいまいは めまいのやまい

まいまいの まいまいみまい

かかすまい

谷川俊太郎「ことばあそびうた」より




自然な姿勢から、魅力ある声を

人はみな個性的な存在である。そして本来の自分の在り方をしっかりと実現している人は個性的であり、そのことに魅力がある。その意味で個性を磨くとは本来の 自分をよりよく発揮するということである。
個性とは似ても似つかぬものなのに、意外に個性と錯覚されがちなのがクセである。クセとは自分でないものをくっつけて、本来の自分の姿を歪ませているもである。

チック症状的な動作や貧乏ゆすりなどなら誰しもがクセと考え、あまり良い感情を抱かないが、 例えば反対意見を言ってからでなければ行動に移れない人や口をへの字に結んで黙々と仕事をし続ける人、または奇抜な格好をする人などをもって個性的と評価することがある。

しかし体ほぐしをしながらその 人の本来の姿をさぐっていくと、「ああ、これは自分に合わない環境から身を守るためのひとつの手段にすぎないのであって、この人独自の魅力ではないのだ」とわ かることも多い。

クセとは例えて言うと、床柱として使われている四角い竹である。タケノコは本 来丸いものである。そのタケノコに四方から板をくくりつけて四角く成長させるのである。全国一のタケノコ産地である長岡京近くに住んでいたことがあるので、四角い竹づくりをよく目にしたが、竹が伸びる毎に板をとりかえて、結構めんどうな作業を重ねている。だから床の間に柱として出来上がったものは相当な値がするらしい が、私の目からすればイビツで窮屈なものとしか見えない。

ずいぶん前、TVの人気司会者であった逸見さんがガンで亡くなったのも、本来の自分から遠く離れた仕事内容が原因だと思われる。彼はもともと内息の強い人であり、大真面目な人である。人柄の良さで人気者となったのだが、自ら人を笑わせるタイプではなかった。なのにお笑いタレントのようなキャラク ターを要求され続けて、イライラとクヨクヨをつのらせて遂にガンを患い還らぬ人 となってしまった。

歌の発声についても訓練しているつもりが、実はセッセとクセを身につけていた、 というようなことが多い。音楽大学などで「おなかを引き締めて! 胸を高く!」 と教えられた人がほとんどではないだろうか。明治の文明開化で西洋音楽をあわてて取り込もうとしたせいである。

イタリアへ歌の勉強をしに行った日本人にとってオペラの声は驚異であっだろうし、憧れの世界でもあっただろう。何がなんでもイタリア人のように歌い たいと、必死にマネをした結果が胸を張ることであったし、お尻を突き出すことであった。

しかし、イタリア人はそんな姿勢で歌ってはいない。自然に立っているだけである。ただ体型として胸が厚く、あるいは大きく、お尻も元々デカくてドッシリと構えているように見えるだけである。

日本人は日本人の自然な姿勢で、うちからの発声を出発点とするべきである。その中からイタリア人 には真似のできない日本人の魅力的な発声が生まれるのである。イタリアのオペラをイタリア人のように歌うのではなく、日本人の声でオペラの本質を表現すればいいのである。

個性とは本来の自分を発揮することである。バラがバラであり、ヒマワリがヒマ フリーであることである。個性の種は既に自分の中にある。個性は外から学ぶもので (いない。ひたすらクセを取り除き、自分の内から表現をどんどん引き出すことで、花も開くのである。

シリーズとして、ボディートー クの自由表現法のプログラムを紹介してい こうと思うと共に実践することで自然で豊かな個性を発揮していってほしい。




妻の息が夫に伝わる

息は伝染するも。あくびはその好例

息は伝染する。会議などで一人がアクビをすると、次から次へと伝染して会場に気だるさが漂う。その意味で、息はその場の空気を支配する、とも言える。

狭いエレベーター内ではお互いの息遣いが聞こえる。それで聞こえないようにと息を殺すものだから、窮屈な思いをしてしまう。こういう時は口を少し開くのがコツだ。口を開くと音がしないように息を足下まで落とすことができるから、楽に深い呼吸ができる。

窮屈な息といえば、お葬式もその典型である。悲しみの思いは気道を締めるから参列者の大半は息を詰めている。その中に故人と縁がなく義理で参列している人もいるだろうが、その人も開放された明るい声でしゃべることは憚られる。

全員が 声を潜め、息を詰めることで会場の空気が悲しみ一色に 統一される。
悲しみを更に深めるために、昔は葬儀専門の泣き女と言う風習さえあった。また、飛行機事故で亡くなった歌手の坂本九さんのお葬式では、会場に流れるバイオリンの音が、かすれ気味に震えながら、とぎれとぎれに演奏されているのが印象的であった。共に会場の空気を支配する力を持っている。

そして会場の空気とは、その場にいる人たちの息の仕方に他ならない。従ってお葬式に参列する時は、会場の近くまで行ってから胸を押さえて、数回、息を詰めておくのがコツである。そうすればお悔やみも言い易くなる。

0夫人は四十代後半の上品な奥様である。夫婦間の悩みがあってボディートークの個 人レッスンに来られた。夫は温厚な人柄で会社の管理職でもあり、特に問題がある訳でもない。ところが結婚以来、いまだに打ち溶けて話し合ったことがないのだそうだ。

いつも礼儀正しくよそよそしくて、他人と暮らしているようだ、とおっしゃる。 早速、0夫人にうつ伏せに寝てもらって背中を調べた。すると背中が石のように固い。 特に両肩甲骨の間である肩身をギュッと詰めている。これは切ない思いを溜め込んでいるしこりである。

また、その下の胸椎九番に強いしこりがある。これは憎しみを表す。 しかし他のしこりとの関連から、夫へのではなく、どうやら両親へ向けられた憎しみの感情である、と私は直感した。「ご主人のことより、ご両親のことで憎しみが出ていま すが・・」と説明すると、O夫人は思い詰めたように語り始めた。

両親から、今のご主人との結婚話を勧められた時、彼女には他に意中の人がいたのである。そのことをご両親に打ち明け、辞退したいと懇願したけれど聞き入れられず、無理矢理、結婚させられてしまった。自殺未遂事件まで起こした揚句、夫には決して心を許すまい、と決意して結婚生活に入ったのだそうだ。

結婚以来二十数年、そんなことはすっかり忘れていた、と0夫人は寂しく笑った。と、そのあと肩身をほぐすと、泣きたいと思っていないのに、止めどなく涙が流れ出た。 切なさのしこりや憎しみのしこりは、本人がそのことに気付きながらほぐすと、ようやく柔らかくなるものである。固くしていた神経がほぐれてやっと涙も出るのである。ひとしきり泣いて彼女は帰ったが、その夜、びっくりすることがあったと、次のレッスンの時に報告があった。

夫が口笛を吹いていたというのだ。今まで聞いたこともなかった夫の口笛とリラックスした態度に彼女はびっくりしたのだが、それは彼女の息が緩んだからである。
変わったのは彼女の方の息である。心をほぐし、体 をほぐしてわだかまりを取っていったので、夫を許す息になったのだ。開放された息が夫の無意識の息に伝わり、家庭の空気が和んで、彼の方は思わず口笛が出た、というのが本音だろう。

0夫人から「おかげ様で、電車に乗っても、やっと夫と隣同士座れるようになりました。 これからは少しづつ近づいていけ そうです」という、うれしい便りをもらった。




借金のしこり

自分のエサを差し出す心境

「借金で首がまわらない」のは、頸椎7番の周辺の筋肉 が固くなるからだ ― ここまでは以前から気が 付いていました。そして自分の体験や人の体で確かめ、 外国人も同様であることも実感してきました。、

問題はその先です。ではどうして頸椎7番に借金のしこりができるのか。このことをずーっと考え続けてきま したが、最近やっと結論らしきところまで到達しました。
即ち、人間にとってのお金の問題は動物にとってはエサの問題です。動物のエサのやりとりと人間のお金のやりくりは共通の精神構造の上に成り立っているのではないかと考えたのです。

例えば、ライオンがシマウマを倒して喰いついてい るとしましょう。おこぼれを頂戴しようとハイエナ達 がまわりを囲んでいます。この時のハイエナの姿勢を 見ていますと、ジッと立ち止まって、首を下げもせず上げもせず、中位で固定しています。

その目付きや口元やノドの動きを見ますと、ハイエナはどうやら固唾を飲 んでいるようです。唾を固く飲み込むには、自分でやってみればすぐにわかることですが、首の付け 根を固定しないとできません。つまり、固唾を飲む前提になる筋緊張が頸椎7番の固定と考えられます。

ところでハイエナは、ライオンがむさぼり喰いついているシマウマの肉を、ライオンのものだと思っているでしょうか。ライオンが倒したエサであるにもかかわらず、 ハイエナは自分のものだと考えているでしょう。だから自分のエサを仕方ないから、 今はライオンに差し出しているのだという心境ではないでしょうか。

私の体験で言えば、小学生の頃、通学の途中に柿が実っていまして、人の庭先の
柿であるにもかかわらず、ある枝の何番目の柿は自分のものであると勝手に決め 毎日大きくなるのを楽しみにして、とうとう失敬した記憶があります。その時は人のものだとは全く考えてなかったと思います。

さて、人間にとっての借金の問題を重ねてみましょう。借りたお金そのものにス トレスを感じているのではありません。借金の悩みとは、返さなければならないという義務感の重圧や返せないかもしれないという不安感から起こるものです。

そして自分が稼いだ金を貸方へ差し出さなければならないという焦燥感が、頸椎7番を固定するという本能とつながっているのだと考えました。

目のしこり取り
1 頸椎1番の両脇、即ち頭蓋骨の下端にあるくぼみ が目のしこりの出る位置です。ここに豆粒のよう な固まりがあれば、目は相当に疲れています。

2 中指もしくは人指し指を目のしこりに軽く当て揺すります。

3 ウケテは「アー」と小さな声を出して下さい。

4 自分で軽くたたいてみるのもいいでしょう。




心身一如の体ほぐし

<体が不調な時の楽しみ方> 自分で確かめる神経のつながり

「眠い時には足の親指をほぐす」ーーかつて高校の教師をしていた頃、職員会議が私には大の苦手でした。とにかく眠くなるのです。居眠りしていたと記憶していますが、時にはそうもしていらない場合もあります。何とか目が覚める方法はないかと、あちこちつねっている時に親指の第一関節をつまんで、コリコリと揺すってやると、偶然目がパッチリとして頭がはっきりすることに気付きました。

目の神経と、どのようにつながっているのかはわかりませんが、寝不足をしている人や目の疲れている人は、その部分を触れられると確実に痛みます。そして痛みをほぐすことで目がすっきりするのです。

これまでに発見をした二、三の例をご紹介しましょう。

「コムラ返り」 ー-ある朝、起きようとして突然、右のふくらはぎに石のような固まりができてつりあがり、激痛が走りました。私にとっては生まれて初めての経験でしたが、これが彼の有名なコムラ返りか、と察知しました。

痛みの中 で体のあちこちをさぐってみたところ、後頭部の頸椎一番右横を親指で押したとたん 神経がふくらはぎのほうへピピピと走ってふくらはぎがフッとやわらぎ痛みはなくなりました。

コムラ返りは医学的には神経の冷えからくると言われています。水泳中に起こって、プールサイドで足の親指を引っ張っている人を時々見かけますが、かなりの時間痛んでいるようです。私の方法ですと、それこそものの数秒で解消です。会員の中でよくコムラ返りを起こす人がいましたので、この方法を教えましたら、早速ためしてみて「本当だ。すごい」と喜んでいました。

「歯の痛み」ー-ムシ歯で痛むのは処置しなければなりませんが、過労などから歯が痛むこともあります。それをてっきりムシ歯だと思って歯医者に行ったら、何ともありませんよ、と言われる人も多いようです。

歯が痛んだ時は、まず全身の体ほぐしをします。そして特に首や顎関節や頬骨たいてい の際、コメカミなどの神経の流れを良くします。それでも痛みが変わらない時は歯医者へ行けばいいでしょう。

歯科で部分麻酔をしてもらった時は、痛み止めの薬をもらいます。「私は要りません」と言いましたら、歯医者さんが「大丈夫ですか。ずい分痛みますよ、本 当に要らないんですね」と何度も念を押されました。

歯の麻酔薬を注射された時、顔の神経を色々触ってみました。すると口やアゴの周辺で小さな節ができています。麻酔薬は体にとっては毒ですから、神経や血管やリンパ管などが節をつくって、それ以上まわらないようにブロックしているのではないでしょうか。

痛みは麻酔薬がさめる時に起こります。そこで覚める前にプロックされている部位をほぐします。そうすると全く痛みはありません。これは是非みなさんも是非試してみて下さい。

その他「ものもらい」ができた時に首を振ることや「切り傷」の自然治癒など色々あります。自分で治し方を発見するのは文字通り愉快なことです。これはボディートークの基本的な考え方です。