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足裏の疲れをとる

私たちは当たり前のように二本の足で歩いていますが、 人間が立っているってすごいことですね。こんなに小さな足の裏の面積に、よくぞこれほど大きな体を乗せてバ ランスよく立っていられるなと思ったことはありません か。しかも二本足で歩くということは、一本足で立つことができるからこそ可能なのですから。

ところで女の子たちに人気のリカちゃん人形は、八 等身美人に作られてはいますが、体の各部の比率が本物の人間に近いようにデザインされています。このリカちゃ ん人形を立ててみようと試みたことがありますが、到底立たせることはできませんでした。

そこへいくと、生卵は 一見不可能に見えても立たせることができます。少し集中して丁寧にバランスをとってやれば、表面がツル ツルの机の上にだって見事に立ちます。中身が液体だ からです。中身が微妙に動いてくれるから、立つバランスをとることができるのです。

中身が固体であるユデ卵は当然のごとく立ちません。生卵より接地面積の大きい
リカちゃん人形についても同じ理由で立たせるこ ができないのです。
人間の中身は柔らかく、しかも生きています。だ から諸々の筋肉が瞬時に総合的にコントロールされるので立つことが容易なのです。

でも足の裏の動きは特に大変なのです。ちょっと意識を集中してみる と、カカトから指先まで絶えず微妙に動いているのがわかります。
ちなみに、体の固い人ほど足裏のコントロールは 大変なのです。

ギクシャクする動きを足裏は知らない間に四苦八苦して支え続けるのですから。体の柔らかい人は中身を微妙に動かして身をこなしますから、足裏への負担も最少限度に留めることができるのです。い ずれにせよ足裏は大変な働き者で縁の下の力持ちという訳です。

今回は足裏をほぐす方法をご紹介しましょう。 J

1 茶セン
長時間立っていたり歩き続けたりしますと、「土ふまず」の筋肉が固くなって足 全体に鈍い痛みが感じられますが、この時エネルギーの滞りが中足指節関節に来ていることはあまり知られていません。

中足指節関節は図のように、指の更に内側の関節なのですが、前向きの行動(人 的な問は後向きの行動は滅多に行わない)を支えるのがこの部分なのです。ですからこの関節の可動性を良くしますと足の疲労も早くとることができますし、身のこなしも軽やかになるのです。

ボディートークでは二人組になってお互いに中足指節関節をほぐしあいます。相手の足指全体を手で 包み込んでプラプラと揺するのですが、まるで抹茶の泡を立てる時の茶せんを見ているようなので「茶 せん」と名付けました。

よく指先だけを動かしている人を見かけますが、 それはあまり効果が上がりません。指先の更に奥の関節を揺するのだというイメージを持って行ってください。

茶センの方法のシテは自分の土ふまずにウケテの足を乗せます。 ウケテの足が右足の場合はシテの左足に乗せることになります。ウケテのアキレス腱がシテの 土ふまずに乗ると収まりがいいでしょう。

2 シテはウケテの足指を手ですっぽりと包むように持って中足指節関節をプラプラと揺すります。 ウケテの右足はシテの右手で、左足は左手で行います。もう一方の手はウケテの土ふまずのと ころを軽く握っていれば揺すりやすいでしょう。

3 シテは肩を落として手首を柔らかく、素早く動かすのがコツです。
ポイントを素早く揺する




耳をひらく 耳をとざす

心身一如の体ほぐし

サファリ・パークでラッコを見ました。水面で仰向けに浮かんだまま、おなかに 乗せた大きな貝を、両手にはさんだもうひとつの貝で割る様はユーモラスでとても可愛い。
生の貝をおなかいっぱい食べて、ラッコは水の上に長々と横たわります。そして 丸太のようにクルクルとまわります。係の人に聞きますと、ラッコはそのあと昼寝をして、目を覚ますと一泳ぎして、運動を終えて貝を食べて、クルクルまわって、 ということのくり返しなのだそうです。

なぜラッコは食後にクルクルとまわるのでしょう。それは胃がもたれて、苦しい からです。それでまわることによって胃の撹拌作用を助けているのです。顔の表情を見るとわかります。

胃の働きを助けるためだけでなく、人間も時々ゴ ロゴロ転がることは体の各部の調整にとても有効で す。リラックスをして、人に揺すってもらうと更に気持ちよくなります。

その方法のひとつが「ネコがえし」です。猫がノ ビノビと気持ちよさそうに寝転がっているイメージ で行なって下さい。

耳をひらく

弦楽四重奏やソロ楽器などの、繊細で優美な音楽を聴く時は、私たちの耳は開かれています。隅々まで研ぎ澄 まされた音の芸術を、細部まで聴きもらすことのないよう、全ての音を耳に入れて味わうためです。

耳を開いた状態にしますと、鼓膜は積極的に音をキャッチしようとしますから、自らも振動をして受け入 れた音を増幅します。だから大ホールの客席の最後列” も、ステージのピアニッシモも、ちゃんと聴き取ることが できるのです。
鼓膜は更に、音が無くなっても自ら振動をして音を作ります。ほら、ヴァイオリンが静かに最後の音を収める時、弓はもう止まっているのに私たちの耳には音が響いていますね。 その素晴らしい余韻は耳が作っているのです。

ところでクラシック音楽を愛好している人のほとん どがロック音楽には拒否反応です。特にハードロック などは電気音を最大のボリュームでガンガンが鳴り立てますから、思わず耳をおおいたくなるのです。

耳をとざす

これは聴き方が間違っています。ロック音楽は耳を開いて聴くと暴力的な音楽、 す。ビートの効いた強く押し寄せる音楽は耳を閉ざして、体で振動を受け止めるのです。音の細部まで聴きもらすまいなどとユメユメ思ってはいけません。ほとばしる生命が揺すぶられる快感がロック音楽なのです。だから若者たちが好むのです。

さて、ボディートークの体ほぐしにも同じことが言えます。即ち、体ほぐしを受 ける側は、繊細で優しい手には体を開きます。強い手には体を閉じます。従って赤ちゃんや子供、病人や体の柔らかい人には繊細で優しい手が必要ですし、頑丈でガ ンバリ体の固い背中にはまず強い手でほぐしておいて、柔らかくなってから繊細な手でほぐします。背中によってほぐす手を使い分けるセンスも大事ですね。

≪弱い生命には鐵細な手で≫

ネコがえしの方法

1 ウケテは仰向けに寝て両手を頭の上に投げだす

2 そして一方の膝を、他方の膝を越えて立てます

3 シテはその膝に片手を当て軽く揺すっていって、揺れが大きくなったところで、 もう一方の手をウケテの腰に当ててコロ ンと反転させます。 ◎ウケテは揺れに身をまかせながら「アー」と発声します。




自然と対話し生きる(ボディートークの原理)

ドジョウとりでリラックスの中の集中力

このシリーズは今回で最終を迎える。そこでボディートークの感覚がどのようにして生まれたのか、その一端をお話して締めくくりにしようと思う。
私は四十一歳の時、十五年間動めた教職を辞し、ボディートー クの講演や講習を行うようになった。

「先生を辞める時は大変な 決心がいったでしょうね」と、よく人に尋ねられるが、私や妻にとってはボディートークへの道は当然というか、必然というか、 まるで定められた運命であるかのように感じていたから、特に気負いや一大決心があった訳ではない。

だいたいボディートークそのものが、意図して考案されたものではない。音楽教室に暗い表情で入って来る高校生が、一時間の授業の中でどうすれば明るくなることができるか。

また授業が終われば友と肩を組 み、歌を口ずさみ、口笛を吹き、或いは深い満足で微笑みながら帰っていくようになるにはどんな内容を準備すればいいか。 毎日毎日が、その試行錯誤の連続であったし、その授業の積み重ねがボディートークの原理へと導いてくれたように思う。

その意味でボディートークを創案し命名した私自身が、よくぞこんな体系が現れたものだと他人事のように感心しているのである。ただ思い起こしてみれば、ボディートークの基本的な感覚はすでに幼少の頃より培われていたように思う。

そのうちの一つは「ドジョウ獲り」である。
小学五年生の時に、私の父は京都の北山の麓に小さな家を懲てた。田園の真ん中にポツン一軒あるきりで、夏の夜ともなるとカブト虫や蛍が飛んでくる、のどかな所であった。

家の前に小川が流 れていて、農薬を使っていない時代であったから、メダカやドジョウなどがたくさん泳いでいた。それで引っ越ししたその日から私はドジョウ獲りに夢中になった。

ドジョウを素手で捕らえるのは結構むずかしい。まず、水の中の石を丁寧にそぉっと持ち上げる。 するとドジョウがじっと潜んでいるのに出くわす。石を脇へ除けて、両手でドジョウをジワジワと 囲み、包みこむようにして捕らえるのである。
この、両手で囲む時にコツが要る。水の流れを妨げないようにするのである。ということは、流れの隙間に手を差し入れるイメージである。そしてドジョウの横たわっている砂ごと両手ですくうの である。

一匹捕らえるのに随分時間がかかるが、息を詰めないで深く静かに呼吸し、全身を柔らかくして集中する、いわゆる「リラックスの中の集中力」はドジョウとりで得られたのではないだろうか。

川上へ向かって小川の全ての石をめくり、バケツの中にドジョウが一杯になる頃には日も暮れかけ ている。そこで捕らえたドジョウをまた全て川へ放して、翌日再び捕らえる。そんな日をくり返し ていたようだ。

もう一つ「ガンドウ挽き」の思い出がある。ガンドウとはノコギリの大型のものであるが、私は 中学生の頃、冬になるとストーブ用の薪を半分に切るのが日課であった。

胸ぐらいの高さの台に一本の薪を置き、太い針金で固定する。針金の先端にはミシンの足踏板のようものが付いていて、要するにその板を左足で押さえながらガンドウを挽くのである。

薪は二十本ほど一組にして、ワラでくくってある。それをほどいて一本づつ台に乗せ、針金で固定して切るのであるから、手間隙がかかる。ある時フト思いついて、一束まるごと台に乗せ、縄を解かずに切ってみた。

ガンドウの歯はかなり大きいから肩に力を入れて引けばたちまち薪が動いてしまう。すると刃が木と木に挟まれて身動きがとれなくなるから、一回でも失敗はできない。初めはガンドウの重みだけでちょっちょっと挽いていって、切れ目が深くなるほどに大胆に挽いていく。

この時に得た感覚が「足裏にフーッと息を落とす」ということ ー下丹田を通り越して「大地へ息が抜ける」ということ ー 即ちボディートークの深呼吸であった。そして一部分の筋肉に力を入れるのではなく、「ひとつの物事に全身が関わること」更に、薪にその都度聞きながらガンドウを挽くこと 。

即ち「自然と対話しながら生きる」ことを養ったように思う。




人間だからこそ理想的な自然死

ボディートークを身につけ、生命を育みながら充実した 日々を過ごせば、人生は優に百年となるのではないか。古代中国では人生を四季に重ねてイメージし、各々の季節に 色を冠していたことは前回述べたが、人生百年となると、 各季節は何才に該当するのであろうか。

生まれてから大人になるまでの人生準備期を経て、「青 春」は二十代・三十代である。希望に満ち、好奇心一杯に社会人としての自分を確立するこの時期は、失敗を恐れず困難にもどんどん挑戦する意気込みが欲しい。そして奮闘の甲斐なく事が成就できなかった時は、さっさと敗北を認め、謙虚に教えを請う爽やかさが欲しい。即ち「颯爽と」生きる姿が精神面でも身体面でも青春の基本的な在り方ではないかと思う。

「朱夏」は仕事面でも家庭面でも先頭に立って最も活動できる時期である。四十代・五十代がそれに当たる。 自分の差配で面白いように世界が開かれていく時期でもあるが、責任もしっかりと両肩にのしかかり、そうそう失敗もしていられないので、最もしんどい年代でもあるだろう。「堂々と」進むべき時であると考えている。

その点、「白秋」は体力的にも「堂々と」できなくなる年代である。もはや若者と競う時ではない。むしろ肉体面でも人間関係の面でも見事に身を処すことの範となる時期である。六十代・七十代がこれに当たる。少し人生を振り返る余裕を持って、後継者を育てる年齢でもある。「悠々と」仕事もこなし、人とのお付き合いもゆったりと 楽しむことのできる、ゆとりの季節である。

人生五十年の時代では、初老は四十才であった。人生百年ともなると、年齢的には倍生きることになるから、四十の倍、即ち八十才をもって初老と考える。年をとったかな、 と言えるのはこの時からで「玄冬」の始まりである。
「玄冬」の八十代・九十代は第一線を退くものの、まだまだ元気だから、いよいよ自分自身の楽しみに没頭できる時期である。

ただし、生命の泉は日に日に細く、清らかな 流れになっていくから無理は禁物である。力まずしなやかに全身をこなすボディートー クの整体運動を身につけていれば、まだまだ海外旅行やスポーツを楽しむことができる だろう。更にうれしいことに百才に近づくにつれ、孫や曾孫もグンと増えるだろう。運良くいけば曽々孫にも会えるかもしれない。

そしてある日、ふと死を予感する。自然死とはそういうものであるらしい。普通どおりに元気に生活を送っていて、ある日突然、自分の命もあと数日だな、と静かに確信す る。動物界でも、天敵のいないライオンなどが自然死を予感することはよく知られている。

ライオンは草原に群れを作って暮らしているが、ライオンを襲う他の獣がいないので、 日がな一日のんびり寝そべっている。特に牡ライオンなどは体も大きく立派なたてがみを持っているのに、狩りは牝ライオンにさせておいて、獲物は一番に食べるというグウタラ亭主ぶりである。

その呑気なライオンがほぼ四十年ほどで天寿を全う する。そして死期を悟ったライオンはそっと群れを離 れ、プッシュに身を潜める。もう食欲は全く無く、た だうずくまって息を引き取るのを待つのみである。

このまま数日が過ぎれば、ライオンは理想的な自然死である。ところが九十九%まで完成にこぎつけた自然死が、最後の一%でどんでん返しに会ってしまう。
ハイエナ達が目ざとく見つけるのだ。無抵抗のライオンを寄ってたかって食いつくし、骨までしゃぶる。

その点、人間は安心である。誰も自分が食べられるなどとは心配はしていない。おだやかに臨終を迎えることが出来る。最後の日は家族や友人達に囲まれて、幸せであった日々を回想しつつ、眠るように息を引き取りた い。このような自然死は人間だからこそ可能だと思う。




無意識に押さえ込んでいる感情

失恋であれ、家族の死であれ、他の人のことであれ 悲しみのイメージが脳裡にとび込んでくると、悲しみの感情は意識の中で漂い始めます。

水面上を意識の世界、水面下を無意識の世界とします と、悲しみのボールが水面上に浮かんでいる時は、人は感情を露にします。この時点では悲しみから生じる体のしこりもほぐしやすいのですが、悲しみが更に重くなっ て、ボールが水面下へ沈み始めると大変です

悲しみに耐えかねて、自ら体を固め、ゆがめることで悲しみのボールを意識の世界へ上げないようにし始めるからです。この状況をボディートークでは「体に鍵をかける」と言っています。

そしてしっかりと水面下に押さえ込ま れた悲しみのボールが、自らもじっとして動かなくなることを「心に鍵をかける」と言っています。

鍵は自らがかけるのです。このことによって悲しみ は一旦忘れ去られるのですが、押さえ込んでいる体の重さ、気の重さだけはしっかりと感じ続けます。暗雲のたちこめたドーンと重い毎日となるのです。

因みにボケも最初は自分から積極的に起こすのです。疎外され尊敬されない自分 を意識するのが辛くて、現実を察知する脳の働きを自らストップしてしまうのです。 そして体に鍵がかかると、今度は戻そうと思っても自分の力では戻すことができなくなってしまうのです。

その意味でボディートークの体ほぐしは、まず「体の鍵」 を開放することから始めます。

五十名ほどの講習会で体ほぐしの説明をした時のことです。「この中で一番体の 固い人をモデルにしますから、しんどい人は挙手をお願いします」と言いますと、 十名ほどが名乗りをあげました。

それで一人づつ「アー」と発声してもらって、そ の中で最も声の詰まっている人に決定しました。五十代の主婦です。
うつ伏せになってもらって背中に触れますと、胸椎3番を中心に肩身がギュッと
詰まっています。家族関係の葛藤を表す胸椎5番にも強いしこりがあって、背骨より右側を固めています。

「家族のことで随分長い間悩み続けましたね。そして私がやらなきゃ 誰が面倒を見るんだってえらく切ない思いの中で気張ってきましたね」と言いながらほぐしていきました。

しばらくしてその人の目から涙がこぼれ始めました。体の鍵がはずれてきたので す。「泣けばいいのですよ、悲しみを押さえ込んではいけませんよ」と私は声をかけました。
そして仙骨に触れた時です。その人は迷いの気持ちをずっと溜め続けてきたので しょう。迷いのしこりが積もり積もって固まった仙骨だと私は直感しましたので、 「あなた、迷いに迷って辛い人生だったね」と言ったのです。

そのとたんに、仙骨がクリッと動いたのです。すると私の指先から私の体の奥にその動きが伝わって、 私の悲しみの感情を揺すぶったのです。思わず私は自分のために泣いてしまいました。自分も泣きながら体ほぐしをするなんて初めての経験です。

体ほぐしは全体で五分ぐらいだったでしょうか。 その人に「立ってみてください」と言いますと、「アレッ、まっすぐに立てる。ずっと腰痛で、今し がたまで前かがみでしか立てなかったのに・・・」 と本人はびっくりの面持ちでスッキリと立っていま う。会場には大きな拍手が起こりました。

体の鍵をはずし、心の鍵をはずして本来の自分に 立ち戻るというのがボディートークの体ほぐしの考え方です。

体の鍵

1 ウケテは仰向けに寝ます。

2  シテは立ったままウケテにまたがり、両手を持ち上げます。

3 ウケテの腕に抵抗のない角度を見つけながら前後左右と、タコの腕のように揺すります。
4 ウケテの「アー」という声が気持ちよく揺れるのを聞きながら、一声終われば両手を静かに下 ろします。




ふんわり すっきり しっとりと 生きるコツ

「ふんわりと」始まり「すっきりと」したお付き合いが積み重なると、やがて「しっとりと」した段階に到達します。ツーと言 えばカーと応える、すなわち以心伝心のレベルです。

馴染みになるとか、親しいお付き合いというのは、ここまで進んで初めて言えるのです。たとえどんなに気があっても数回出会っただけでは、うかつに親友と呼ぶものではないと私は考えています。

「しっとり」という語は「下垂る」から生まれました。水滴がポツリポツリと下へ落ちる様から、静かに安定して、無理なく確実に事が運ばれるイメージを表現しています。
話しは脇へそれますが「下垂る」と似た語に「したたか」あります。一筋縄ではいかない、とか踏んでも蹴っても自分を曲げない、とか現在ではあまり良い意味で使われていませんが、「したたか」とは元々「下確か」なのです。

竹が強風に押し倒されても、風が止めばキチンと元に戻る 「しなやかさ」が「下確か」なのです。どんなに周囲に流されても、最後は自分を失わない確かさなのです。

その意味でボディートークでは「しなやか」と同様に 「したたか」も良い意味として大切に使っていきたいと考えています。
さて、「ふんわりと」「すっきりと」「しっとりと」の三段階はキー・タッチに限らず人間関係、 生活、仕事、自己表現のあらゆる分野に当てはまります。数例を挙げてみましょう。

立居振舞いで言えば、例えば「ふんわりと」腰を下ろします。タタミを大事にし、座ブトンを丁 寧に扱います。そして「すっきりと」座ります。特に正座の場合は、足にお尻を乗せて微妙に上体を揺すり、居心地の良い上体の乗せ所を見つけます。そうすると、「しっとりと」腰を落ち着けることができるのです。

これが逆のイメージだと「ドシン」と腰を下ろします。座ったとこ勝負で「キュークツ」なままガマンをします。するとすぐに足にシビレがきて、体にユガミが生じ「ゴソゴソと」落ち着きません。

会議の在り方に例をとれば、「ふんわりと」和やかな雰囲気で始まります。みんながリラックス の中で集中するので「すっきりと」討論が進みます。無駄な時間なしに良い結論が出るので「しっとりと」喜びを分かち合うことができます。

これが逆だと「コチコチで」始まります。会話は「ギクシャクと」してかみ合いません。時間切 れで後味悪く「ガサゴソと」後始末します。

語学の習得なども「ふんわりと」楽しむうちに「すっきりと」理解できます。そうして「しっとりと」会話が続くのが理想です。しかし、たいていは勢い込んで「カンカン」になって努力し「ガッチリ」としゃべろうとします。それで何年勉強してもうまくいかなくて「ガッカリ」するの です。

私は「ふんわりと、すっきりと、しっとりと生きる」ことをモットーとして、人と接する時も、 物を扱う時も、この三つのイメージをクリアすることを心掛けています。

お尻ゆすり 「お尻ゆすり」と言えどもお尻を揺するのが目的ではありません。お尻の中には骨盤があります。その骨盤が揺れるようにするのです。

骨盤は腸骨と仙骨から成っています。そして両者をつなぐ仙腸関節は微妙に開いたり閉じたりして交感神経と副交感神経を調節しています。
人は行動を起こし、心が緊張しますと仙腸関節はキュッと締まって、交感神経の働きを活発にします。これが過緊張になると貝が殻を閉ざすように、ギュッと更に固くなってしまいます。すると仙腸関節が締まり容易にほぐれません。そうなると不眠症になってしまうのです。

気力が落ちますと、反対に仙腸関節は開いてしまいます。
指を当ててみますと、開きを感じることができます。そうす ると交感神経の働きが鈍くなって行動がおっくうになります。

締まり過ぎも緩み過ぎも「お尻ゆすり」で調節します。また女性の生理の時などは仙腸関節が開いていますが、体にしこりやゆがみがありますと、 仙腸関節がズレてしまいます。生理痛の一因ともなっています。このような時も「お尻ゆすり」をしてもらうと、その場で楽になります。  

お尻ゆすりの方法

1 ウケテはうつ伏せに寝ます。

2 シテはウケテにまたがり、片膝を立てます。

3 シテはウケテのお尻の両側面に手を当て水平に交互に揺すります。

4 その間ウケテは「アー」と発声します。




生命は3つのイメージで弾む

<ふんわり、すっきり、しっとりと>

「ふんわり」は人に接する第一歩 
私たちは生命に対してまず「ふんわりと」接しなけれ ばなりません。生命とは生まれたばかりの赤ちゃんのように、元々柔らかいものなのです。
「ふんわり」は「ふわっ」というふくらみや、弾力のイ メージを強調した言葉ですが、古代日本人は母のことを 「ふぁふぁ」と呼んだそうです。その響きが、やがて「は は」となるのですが、太古の昔から母は柔らかくて温かい存在であったのでしょう。

赤ちゃんを抱く母の手のように柔らかく、温かく、穏やかなタッチは「ふれあい」の大原則です。初めて出会って、いきなり固い握手なんかをされますと、ズカズカと心の中に入り込まれそうで、何と乱暴な人かと思ってしまいます。

日本のビジネスマンは、固い握手でないと握手ではないと思っている節が見うけられますが、契約が成立をして喜びを表現する時ならともかく、これからお近づきになろうという時は言葉も態度も「ふんわり」を第一原則としたいものです。

●「すこやか」とは流れがいいこと
キー・タッチを「ふんわりと」始めたら、次は「すっきりと」行う。「すっき り」とは「すこやか」ということばから生まれました。その語源を探ってみましょう。
「健康」という文字は漢語ですが、古来、日本人はヤマトコトバで「すこや か」という素晴らしい表現を持っていた。「すこやか」は「すくやか」という発音 が変化したものですが、それでは「すくやか」とは、もともとどういう意味だったのでしょうか。 まず、語尾の「やか」。これは接尾語といって、良い意味の言葉を強調する働きを表しています。

例えば、「さわやか」「しなやか」「にこやか」「にぎやか」などなど。 「やか」の付く言葉は全て良いイメージです。
従って健康という意味は「すく」の中にある。「す」「く」とは「素」「来」、即ち「素が来る」ということです。

「素」というのは織物のタテ糸のことである。タテ糸が、もつれないで真っ直ぐ に垂れている状態を言います。「素が来る」というのは、沢山のタテ糸が、もつれないいで、きれいに垂れていること。そうすると「ハハーン」と思いあたることがありますね。

髪の毛にクシを入れてもつれをとり、きれいに整えること。 畑を耕して、ウネを造ること。 すべて同じ語源です。さらには「空く」というのも、もつれや余計なものがなくなる、というように発展して使われるようになったのである。「スーッとした」と、言うのも、つっかえていたものが流れて通りのいい 「素」の状態になったことだし、「スクスク伸びる」というのもあれこれ問題をかかえないで順調に 成長するということで、「すくやか」の「スク」です。

私たちの祖先は「健康」の本質を見事に言い当てていたのです。 すっきり、しっとり、にっこりなど。従って、「すこやか」とは、何のもつれもなく、 流れの良いこと、の意です。血液、体液の流れが良く、また消化や排泄がスムーズであることなのです。 WHO(世界保健機構)では「健康とは、単に疾病や傷害がないというだけに留まらず、身体的にも、精神的にも、そしてまた社会的にも安寧な状態をいう」と定められています。

「健康とは、体や心はもとより、 社会生活に於ても流れが良い状態をいう」 と言い換えることができるでしょう。
この「すこやか」から派生した言葉が 「すっきり」です。「ふれあい」に余分 なことは要らない。その時々に何が大事かを整理し、必要なことを必要なだけ行えば 充分なのです。(次号につづく)




膝痛の原因

実家の母から電話がありました。「膝が痛くて歩けなくなったので、病院で痛み止めの注射をしてもらったと」言います。母は八十歳 を過ぎたばかりで、まだまだ元気、と私は安心していた矢先でした。

実家へは車で二時間ほどの距離なので、すぐに飛んで行きまし た。正座ができないとのこと。膝頭を揺すると痛む。どうやら膝関節の位置にズレがあるらしい。私は、早速体ほぐしを始めました。

膝が痛いからといって膝ばかりみていてもダメです。人間の体は骨も肉もいっしょにしてひとつにつながっていますから、 節を正しい位臓に戻すにはまず全身をほぐす必要があります。否、 むしろ膝関節のズレの元凶は 体の別の部分にあることが多いのです。

例えば、背中の片側にしこりがあって、腰をゆがめて歩いたとしましょう。こういう場合は微妙な傾きなので本人は気が付きません。しかし傾いた側の膝には負担がかかり続けます。
背中のシコリある時に、疲労も加わり重さに耐えかねた膝関節が、ズレるのです。そのズレを戻すには背中のシコリにまで逆のぼらなければなりません。

案の上、母の背中には脊椎8番右に強いしこりがありました。芸術家である父親の世話にほとほと手を焼いて、怒りを溜め込んでいるのです。このシコリが腰を引っ張り、仙腸関節をズラし、股関節を歪ませ、膝関節に無理な角度の負担を与えていたのです。

何故そのような判断をしたかというと、仰向けに寝てもらって左右の足の長さを調べたからです。 すると右足が二センチほど短い。

調べ方はこうです。まず寝ている体を真っ直ぐにします。そして足元から見て、鼻、ノドボトケ、 胸の中央、恥骨を一直線上にそろえた延長線上で足の左右の顔を合わせてみます。腰の出っ張った部分がピタッと合うのが普通ですが、腰や膝にズレがあると出っ張った部分は、ズレてしまいます。

その、ズレた距離をもって何センチのズレと私は言っていますが、これは私独自の見方であって医学や整体ではどのように表現しているかは知りません。
母の背中をほぐして怒りを静めたところで“膝たおし”を行いました。すると足の長さは、きれいにそろって膝が軽く感じられるようになりました。正座も楽に出来て、母は「何ともなくなった」 と部屋の中をうれしそうに歩き廻りました。

膝たおしは、橋本敬三氏の操体法にヒントを得た方法ですが、ボディートークでは発声を加味します。更にやってあげる人が、自らの腰も調整できるように動くということを大事なポイントとしています。

膝たおしは、ウケテが膝を立てた状態を自ら外へ倒そうとするのを、シテが一旦手で止めて、膝に力がこもった途端、離すという方法です。膝が倒れた時に、膝関節や腸の内部が微妙に揺れて体が調整されます。

この際大切なことは、シテが手を離した後の、ウケテの膝のリラックスです。ウケテが膝に力を入れてシテの手を押すのは、決して押す力を高めるためではありません。膝が倒れた時のリラックスの揺れをより大きくしないように、一旦押し合いをするだけのことなのです。

ウケテの力がグッとこもった期間にシテは肩すかしのようにヒョイと手を離しますが、その瞬間は声を聞いていても判断できます。膝を押すウケテの中がグンと強くなったところが、手を離すタイミングです。

膝たおしのテクニックが進みますと、シテはウケテの力をうまく 受け止めて、自分の腰の調整ができるようになります。即ちウケテが押してくる膝を手で受け止め、その時、自分の立て膝で支えると、 シテにも一旦、力がこもります。そうして押さえている手を離した拍子に、自分の肩の力もフッと抜くのです。山陽関節が微妙に揺れて、膝関節が調整されるのを感じるでしょう。

相手をほぐしながら、ミズカラもほぐれる方法がボディートークの体ほぐしです。

<膝たおしの方法 >

① ウケテは仰向けに寝ころんで、一方の膝を立てます。

② ウケテの足元に座り、立った際に片手を当て、その手の肘を自分の立て膝で  支えます。

③ ウケチは「ウーン」と声を出しながら、立てた膝を倒そうとします。

④ シテはウケテの膝に力がこもったと感じた瞬間、手を離します。

⑤ ウケテの膝はパタンと外に倒れて、その波が膝関節や腰に波となって伝わるでしょう。

⑥ 片膝につき数回づつ行なえば足の長さはたいてい元に 戻りますし、また膝痛も軽減していきます。




手の掛からない子は息を詰める?

人間はどこかで自分を発揮しないと息を詰めてしまう。 その点イジワル出来る人は押さえ込まれた自分自身を曲がりなりにも出しているから救われていると言えるだろう。
問題は人に極端に気を違う真面目な優等生だ。言いたいことをグッと押さえてしまう自己コントロールが強く、か と言ってうっ積した自分自身を別の形で発散させる器用さも持ち合わせていない。

ある時、一人の母親から子供の相談を受けた。小学校に入学したばかりの男の子の悩みだったが、私はその男の子の体ほぐしをしながら、一緒についてきた小学三年生姉の表情がひどく気になった。

「いや、姉の方は問題な いんです」と母親は言った。「明るい性格だし、友達と よく遊ぶし、弟とケンカはしないし、学校の宿題はキチンと済ますし、ホントに手のかからない子なんです」と。

手がかからないと喜んでいるのは親の都合がいいから であって、子供の側からすれば大人の意に添うようにガマンにガマンを重ねているのだ。 このままいくと中学生か高校生になって、きっとうっぷんを爆発させる。

私が直感した のは、女の子のあどけなさの奥に秘めている自己規制の強さだった。男の子のレッスンを終えて、ついでにということで姉の背中も調べてみた。やはり胸椎七番の気違いのしこりと、言いたいことを押さえている胸椎四番左のしこりがしっか りとある。

「弟とケンカをしてもいいんだよ。言いたいことをもっと言ってもいいんだよ」と話しかけながら私はそのしこりをほぐした。ニッコリ笑って、息が緩んで、女の子は大きなアクビを一つした。
その夜、母親から電話があった。「びっくりしました。早速ロゲンカをしています。 こんなこと初めてです。心のしこりをほぐすってすごいことですね」と声は明るく弾ん でいた。

立って行う「背中たたき」では背骨が縦に積み上げられているため、クッション役をしている椎間板にも重力がかかっています。その状態の背骨をたたくのは無理があります。しかしウケテがうつ伏せに寝ている場合は背骨も横になっていますから一本一本の 椎骨や椎間板に重力の負担はなく、ほぐれやすくなっています。

その背骨を整く握りコブシをつくって、たたくというより落とすという感じで行いま す。肩に力が入るとどうしても強くたたいてしまいますので、初心者は「ホッホッ」と 発声しながら肩の上下動をして、頭や腕の脱力をしておいてから行うといいでしょう。

脱力をして落とすようにたたくことが上手くなりますと、たたいでもらっている方は手の重みが体の中にズシッと入ってきて、しかも背中の表面はたたかれている感じがありません。

ピアノを弾く手はもちろん、料理をしたり物を扱っ たり、植物の世話をしたりする手もすべてこのような 手ですると無駄なエネルギーなしに楽々と進むのです。
その意味でも積極的に人の背中を借りて「背骨たた き」で柔らかくて重みのある手を習得してください。

さて背骨を上から下へとたたいていますと、時にピ リッと痛みの走る個所があります。そこは神経が圧迫されている所ですから、周辺も含めて少し念入りにた
たきます。周辺の筋肉が柔らかくなり、骨が本来の在 り方に戻りますと、たたいても痛みはなくなります。

「背骨たたき」の方法
ウケテはうつ伏せに寝ます。 のシテは横に座り、ウケテの背骨を上から下
へと軽くたたいていきます。 ◎ウケテの声が「ウッ」と詰まる所がシコリ やユガミのある個所です。周辺の筋肉も含 めて少し多めにたたいてください。




肩身をほぐしてニオイをぬく

悩みをかかえて個人レッスンを受けに来る人達の背中ほぐしを しますと、シコリやユガミがとれたとたん、背中からニオイが出ます。
鼻にツンとくる、決して良い匂いではありませんが、背中ほぐしをしている最中に突然発せられます。そのとたん体がフッと柔らぎ心の悩みが和らぐのです。

ニオイを発するのは縮めていた皮膚が緩んで毛穴や汗穴が開くからです。ニオイの元は緊張した皮膚下に閉じ込められ、溜め込まれていた老廃物です。閉じ込められている時間が長いほどに老廃物は発酵しますから、開いた孔からやっと外に放出された時は相当のニオイとなりま す。

ご存知のように、皮膚も呼吸をしています。即ち、体表近くの毛細血管から炭酸ガスが放出され、それと引き換えに酸素を取り入れています。
心に悩みがありますと息を詰めますが、それと同時に皮膚呼吸も閉じさせてしまいます。

特に前身は気管支に最も近く、その周辺の皮膚も痛めやすいのです。
その意味で背中ほぐしのプログラムのひとつである「息の栓抜き」は肩身の詰まりを取り除く方法ですが、この時は特にニオイが出るので別名「背中の毒抜き」と言っている程です。

ある時、ヤセ細った中年の女性がみえました。顔色も黒ずんで肝臓の機能がずい分低下している様子でした。体がだるくて起き上がる気力が出ないとのことです。
うつ伏せに寝てもらって背中ほぐしをしたところ、肩身の狭さがほぐれるほどに、ウィスキーのニオイが強烈に出始めました。胸椎三番から五番の周辺が特に詰まっていますので、その個所を十分ほど念入りに揺すると、本人は泣きたくないのに涙が次から次へと溢れ出ました。そしてニオイはレッスン室いっぱいに充満しました。

あまりの悪臭に私は窓を全開しました。そして女性はニオイと涙を出すだけ出したらカラッと表情 が明るくなり、ポツリポツリと自分のことを語り始めたのです。恋人を追って地方から大阪へ出てきたものの、会うことはできず、嫌々スナックに勤め、生計を立ててきたが、毎晩飲まなければならないウィスキーで体を壊し、先行きがとても不安だ、というのです。

その後、一週間に一度ボディートークのレッスンに通う毎に涙とニオイは少なくなっていき、顔の血色もよくなって気力を回復していきました。仕事も昼間の事務職に替えたということでした。

ウツ病の人なども背中をキュッと固めてニオイを体内に閉じ込めています。その背中をほぐすと 精神安定剤はどの薬もニオイがワッと出てきます。そして薬のニオイが出てしまうと元気になっていくのです。

もちろん健康な人でも心に悩みがあればそれなりのニオイを閉じ込めています。そういう人は息がほぐれたとたん一瞬ニオイがします。ニオイが出れば背中ほぐしは終了です。

「肩身」とは肩甲骨と肩甲骨の間です。個人的な悩みが深くなると息を詰めるようになりますが、息を詰めるということは、この肩身を固く縮めているのです。
特に胸椎3~5番に、まるでコルクの栓をしたように、きゅうくつ に肩身をせばめているので、「息の栓ぬき」をすることが大事です。
「息の栓ぬき」を適切に行いますと、ストレスを溜めている人ほど強烈なニオイが出ます。

数年前から定例会やセミナーに体ほぐしの実習プログラムを入れていますが、初めの頃はこのニオイをキャッチできる人がほとんど、 いませんでした。私が「息の栓ぬき」をして「ホラ、今、このニオイ!」と言ってもキョトンとしている人が多かったのです。

ところ が最近では「ニオイが出た」と報告する人が増えました。体ほぐしの腕が上がるほどに的確にニオイもキャッ チできるようになります。

「息の栓抜き」の方法
1.ウケテはうつ伏せに寝ます。

2. シテはその背中にまたがって、一方の膝を立て、背中に座り込まないようにします。

3. シテは両手の親指をウケテの胸椎3~5番のあたり
に当て、下から上へクイックイッと揺すります。

4. その間、ウケテは「アー」と発声します。

5. 親指は皮膚をこすらない程度に軽く乗せているだけ
です。決して指圧のように強く押さえないでくださ い。ニオイが出て声がつながれば成功です。