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猫が鍵盤を歩くと良い響きに

「肩の力を抜いて!」というアドバイスは様々な活動の中で誰しも一度ならず受けているだろう。ゴルフや野球などのスポーツは言うまでもなく、コンピューターやワープロ等の操作でも肩に力が入っていると動きは鈍くなるし目も疲れやすくなり、思考力 も低下する。営業面でも表情は固くなり行動もセカセカとして 対人関係もギクシャクしてくる。


どうしてそうなるのか? 肩に力が入ると肩が上がる。肩が上がると肋骨が持ち上げられて胸郭が狭くなり息が浅くなり、のびやかに動くことができないし、疲労もすぐにやってくる。


私はもともと音楽家なので 楽器演奏の面から述べると、「肩の力を抜く」ことの大切さはどんなベテランであって も練習の毎に、演奏の毎に絶えず頭の中に入れておかねばなら ない一大ポイントなのである。


例えばピアノの鍵を一つ叩くとしよう。その響きで素人かピ アニストかが判別できる。ピアニストの音は体の重みから出るので柔らかくて幅がある。素人は腕の力や指の力で音を出すので固くて深みのない響きになる。即ち素人は肩に力を入れて奏でるのである。


猫が鍵盤の上を歩くといい響きがすると言われているが、私はまだ猫にピアノを奏かせたことは ないのでわからない。でも猫はピアノを奏くという意識がないので、力みなく歩くだろうから、本当にいい音かもしれない。


それほどに人は何事かを行う時、肩に力が入るのである。入ってはいけないと頭ではわかってい ながら、勝手に入ってしまうのである。何故か? それは自分ではコントロールできない無意識の精神的な要因によって起こるからである。


この場合の精神的な要因は身構えである。さあ、やるぞ、と気負ったり、やらなくっちゃ、と思 うだけで肩が緊張してしまうのである。緊張は焦りの心を生む。するとまず肩甲骨の中央部にしこりができる。


先日、ある会社の部長さんが健康体操をしたいと私の所に見えた。体ほぐしの際、うつ伏せに寝てもらって、肩甲骨の中央部に私が親指を置いたとたん、「痛い!」とおっしゃる。ボディートークの体ほぐしは指圧ではないので、本当にちょっと触れるという感じなのだが、そ れでも飛び上がるように痛みが走る、という症状である。


これは典型的な焦りのしこりである。でも触られなければ痛みは感じないのである。長年にわ たって仕事の焦りから肩に力が入りっぱなしになり、力みが慢性化して筋肉が固くなってしまった ので、感覚が鈍くなっている。だから自覚症状がないのである。


その部長さんに「これは四六時中、焦っていますね」と私が言うと、「えっ、私は焦ってなんかいないですが・・・」といぶかし気だ。「あなたは仕事をする時、今やっていることそのものに気持ちを向けていますか? それとも、これが終われば次にあれを片付けて・・・、というように 先のこと、先のことへと考えを巡らせていませんか?」と聞きますと、「言われてみるとその通りです」という答えが返ってきた。


これが焦りなのである。犬や猫ならエサを食べる時は食べることに集中している。排便の時は排便の爽快感を味わっている。別のことを考えたりしない。
ところが仕事人間となると、食事の時も味わうことに集中しないで次の段取りを考えているし、トイレにしゃがみなが ら、新聞を見たり、考え事の時間だなどとうそぶいたりする。


私が高校の教師であった時に、通知簿をつけることだけは どうも苦手であった。学期末毎に生徒一人一人に何点とつけることが心の重荷となり、一枚作成する度に、ああ、あと何枚ある、と溜め息をつくものだから、遅々として仕事がはかどらなかった。

それがある日、ハッと気が付いた。今、やっていることだけに集中していれば、確実に通知簿は 一枚づつ出来上がっていく。だから何日までに、とか、あと何枚、とか考える必要はない、と。
そう考えた途端、気負いの心は消えて肩の力がストンと抜けるのを感じた。その後は苦手な通知簿つ けも楽に進むようになった




体の内なる声を聞く

*食卓椅子を選ぶ時も

我が家の食卓を買い換えた時の話である。妻と共に家具 店をまわったのだが、幸いテーブルはすぐに気に入りのが見つかった。しかし椅子がなかなかにむずかしい。それというのも、どれもこれも座り心地がもうひとつシックリこないのだ。

椅子を選ぶのに最優先すべきは外観のデザインや価格で はない。なによりも大切なことは、長時間座っていても腰 を痛めないということである。更に理想を言うなら、椅子に座っていることによって姿勢が思わず正しくなる、 というのがベストである。家具は一度買えば十年や二十年は使うものだし、まして椅子は直接、体に影響を与えるものである。決定 には慎重にならざるを得ない。

座り心地がいいか悪いかを、私と妻とはボディートー クで確かめた。即ち、ともかく座ってみて自分の仙腸関節に具合はどうかと尋ねてみるのである。仙腸関節にピリッと痛みが走れば、その椅子はよくない。座り続けると腰骨を歪めるからである。
この際の痛みとは、本当に微細な感覚である。体の内に神経を集中しなければ、普通には全く気付かないような微細なサインである。そしてこれを確かめるには椅子に二十秒も座れば充分に判断できる。
因みに仙腸関節とは、骨盤にある左右一対の関節である。骨盤はご存知の ように背骨からの続きである仙骨と、下腹部をとり囲むような一対の腸骨とから成っているこの仙骨と腸骨とを結ぶのが仙腸関節である。

仙腸関節は微妙に開いたり閉じたりして自律神経を調整している。例えば極度の精神 的緊張が続いて夜も眠れないような人は、交感神経が強く働いていて仙腸関節がカッチリと締まっている。締まっている限り神経は休まらないから、まずこの部分をほぐす必要がある。
反対に、仙腸関節の開きっぱなしの人は副交感神経の方が強く働いているので体が緩んでいる。だから眠気がとれなかったり、体がまとまらなくてダラーッとしている。こ のような場合は、仙腸関節を引き締める自然体運動をすれば体もシャキッとしてくる。

食卓のいす選ぶときもこのような内感は、訓練によって得る後天的な能力 である。即ち「後天的内感能力」とは、このように 「体の内なる声を聴く」能力である。自分の行動の仕方や在り方が、それでいいのか悪いのか、自らの体に問うのである。そして体の声に従って動けば体を歪めるようなことはない。

車を運転する人がたいてい経験することだが、狭い車内で上着を脱いだために肩の筋を痛めた、ということはないだろうか。或いはバックしようとして無理に顔だけ振り返ったために首筋 を痛めた、ということはないだろうか。そういう場合も本当は「内感」によって体の内側の体勢にふさわしい状態になるように、 ゆっくりとタイミングよく動くべきだったのだ。そうすれば筋違いになったりはしないものだ。

話を椅子に戻そう。その日には良いものが見つからなかったので、妻と私とで 別々に、外出した折りに捜すことにした。
その後一ヶ月余り、試した椅子の数は百近くになったのではないだろうか。私は遂に決定版を見つけた。お尻の当たり具合も背のもたれ具合もスッキリしていて、デザインも美しく、座ると思わず背が伸びる、という素晴らしい椅子である。それだけに値段も立派であったが・・・。

喜び勇んで家へ帰ると、妻もまたすごい椅子を発見したと言う。ではまずそちらを先にと言う訳で、妻の進める椅子を見に行ってびっくりした。店は別であったが、椅子はまぎれもなく私の見つけたものと同じである。やはり妻も座ってみて、これしかない と思ったそうである。私たちの仙腸関節に対する「内感」が同じ椅子へと導いたのである。私と妻の「内感」は同じだった

の体勢にふさわしい状態になるように、 がゆっくりとタイミングよく動くべきだったのだ。
そうすれば筋違いになったりはしないものだ。
腰、




後天的内感能力と突発事故での効果

自分で自分の身を守る。これは生きとし生けるものの鉄則である。自分の身を守るためには、まず体の異常をいち早くキャッチできることが必要で、この能力を私は「内感能力」と呼んでいる。誰しもが生まれつき有している先天的内感能力は、体が固くなる程に鈍ってくる。

今、話題の慢性疲労症候群なども、内感能力がかなり低下している人に見られるようだ。心や体を固くして仕事をやり続け、もはや体を休めてみても固さがほぐれない投階に達しているのだ。

後天的内感能力とは、体の構造やシステムを知覚できる能力である。
私の娘が中学生のときに、学校で背中がキリキリと痛んだ。それで保健室へ行って「胸椎4番の左側が痛いんです」と先生に訴えた。「えっ?」と言ったきり先生は絶句だったそうだ。

胸椎4番左とは、左の肩甲骨と背骨の間の中央あたりだが、ここが痛む時はたいてい言いたいことをグッと自ら押さえ込んでいる場合である。保健の先生は知識として背骨の勉強はしていても、内感として自分の背骨の何番がどこにどのようにあるかを知覚する訓練はしていないからビックリされたわけだ。

後天的内感能力が突発事故に際してどのような効力を発揮するか、ひとつの実例を紹介しよう。毎週通っているスイミングスクールで、ある日、思わぬアクシデントに あってしまった。プールの入口は大きなガラスの扉である。構造的には保温のために二重の扉になっている。いつもは二番目の扉が開き放しになっているの で、N夫人はまさかガラスの扉が二つあるとは気が付かなかった。ところが、その日は運悪く閉めてあった。

N夫人はいつものように一番目の扉を開いて勢いよくプール室に入ったつもりが、顔から思いっきり全身、ガラスの扉にぶつけてしまったのだ。鼻や口から血が流れ始めたけれど、N夫人は腰椎に気持ち悪さを感じて、その場で「胴ぶるい」をした。

慌ててとんで来た周りの人も、一生懸命胴ぶるいをしているN夫人を見て「何しているの?」と不思議そうに尋ねた。 顔が大きく腫れたので医者に診てもらうと、鼻の骨が折れ、口の中もかなり切れていた。こんなに激しくぶつかったら必ず腰の骨が ズレているから、ということでレントゲン検査 をしたが異常が見つからない。「変だな」と医者は首をかしげていたそうだ。あの、一瞬の胴ぶるいで腰椎のズレが「あるべき所に」戻ったのだ。

ところで、ここでいう体の柔らかさとは、脚がよく開くだとか、上体を前にかがめて両手が床に着くだとかの 問題ではない。体の中身がつきたてのおモチのように柔 らかくて弾力があることをいうのである。

スポーツでは脚を開くことも必要だろうが、 健康を維持するためなら、脚は歩く程度に開けば充分である。その証拠に犬や猫は開脚運動をしていない。
肉脚 体の柔らかさを得るには自然体運動をすればいい。自然体運動とは発声と共に体を様々に揺する動きだ。

リラックスの中で体を様々に揺すると、体の内部の「あるべきものが、あるべき所に、あるべき様に、在る」という状態になる。そうすると体はおのずと健康になるように神さまは設計されているのである。

人間は他の動物よりも心や体をはるかに複雑に使って日常生活を行っているから、その分シコリやユガミも生じやすい。内感能力を研ぎ澄まして、体に異常を感じれば、すぐさま自然体運動を行って正しい状態に戻す。そうすればいつだってはつらつと活動で きるのだ。しかもこの時の自然体運動はせいぜい数秒のことなのだ。さらに人間にとって有り難いことは、後天的内感能力を開発できるということである。




身体とおしゃべりするために

“身体とおしゃべりする”ためには、「体の声」を聞く能力が必要である。痛みだとか不安感だとか、はたまた喜びの予感だとかの、体の内部から訴えてくる様々な感覚を意識のレベルで捉えるのである。これを私は「内感能力」 と呼んでいる。
内感能力には先天的なものと後天的なものとがある。先天的なものは誰しも持っている能力であって、その最たるものは乳幼児に見られる。

赤ちゃんや子供の体はもともと柔らかいので、ほんの微細な刺激や異常感にも敏感に反応する。彼らの口が辛 い食物や熱い飲み物などを受付けないのは、舌の感覚が鋭いからだ。

大人になると辛子明太子やキムチなども食べ、また飲酒喫煙が できるのも舌が鈍感になっているからである。
鈍くなった分、大人は外界に対して強く逞しくなって いるのだから、必ずしも悲観することはないが、先天的内感能力の衰えについて最近、ショックを受ける出来事を体験した。

小学生八十名ほどを指導している最中だった。突然子供たちが一斉に「耳が痛い!」、 と騒ぎだした。両手で耳を押さえながら口々に「キーンときつい音がする」と言うが、私の耳には何もなかったし、付添いのお母さん達も「別に聞こえませんね」と平気な顔をしている。

「スピーカーの音みたい」と言う子供がいて、念のために電源を切ってみ た。すると、子供たちが一様に「聞こえない、よかった」と言ってホッとしている。
スピーカーから高音の「ピーッ」という電気音が流れ出て、子供たちの耳を突き刺したのだが、大人の耳にはもうその高音をキャッチすることができなくなっているという訳だ。

私は音楽家だから耳をとても大事にしているし、また少なからず自信を持っていたのだが、子供の繊細な感覚にはかなわない。二万ヘルツに近い高音には大人の鼓膜はもう振動しなくなっているのだ。

このように子供の感覚は鋭いが、「背骨の揺れ」となるとちょっと様子が違ってくる。 子供たちに「何番目の背骨が動きにくい?」と聞いても「エエーッ?」と目を丸くして顔を見合わせている。大人にだって「そんなことわかるの?」という世界かもしれない が、訓練によって知覚できるようになる。即ち後天的な内感能力は学習によって可能となる。

背骨はご存知のように首の部分を頸椎と言い、7個の骨で頭を支えている。上から一 番、二番と続き、肩の上端が頸椎7番である。頭をストンと前へ落としてそのあたりを手で触れてみると、大きな骨がボコッと出ている。その骨である。頸椎七番の周辺の筋肉が固くなるのが「借金のしこり」であることは前回の連載で述べた。

胸の部分の背骨は胸椎と言い、上から十二個つながっている。肋骨がくっ付いている骨である。四ツン這いになって猫の喧嘩のように背中をグンと上にあげると、一番高くな るのが胸椎の八番である。胸椎八番から胃を動かす神経が出ているから、この周辺を固くしている人は胃も固くなっている。いわゆる腹が立 つという状態である。

腰の骨は五個である。背骨の中では一番太い部分 だが、動作の要めなので、それだけに重力の負荷も大 きく、ちょっと無理をするとズレる。ズレると腰痛が 起こる。レントゲンでわからないぐらいの微妙なズレ でも、腰痛はキチンと起こる。

体を柔らかくし、背骨の何たるかを体で知れば、ちょっと体を揺すってみることで、何番のどのあたりが動きにくいかを判断することができる。判断ができれば、その個所に意識を集中して背骨をユラユラと揺らしてやれば、しこりはとれる。しこりもこの段階で小マメにほぐせば腰痛にもならないし、肩コリもない。

「内感能力を高めることが、生活の中でどれほ ど大切なことであるか、次回にその実例を述べ よう。




ボディートークは必然的に生まれた

背中は、その人の生き方を無言のうちに教えてくれる。

それゆえに 「レ・ミゼラブル」の主人公、ジャン・バルジャンの物語は見事に背中のドラマだといえるだろう。世間を逆恨みし、極悪人への道を決意して いるジャン・バルジャンの背中を、彼を気持ちよく受け入れた牧師の背中との対比は前回述べた。

話を先へ進めよう。夕食の接待を受け、ベッドを準備してもらったにもかかわらず、ジャン・バルジャンは夜中にそっと起き出して、銀の燭台を盗み出す。 ジャン・バルジャンを極悪人になるにちがいないとにらんで後をつけてきたジャベル警視にすぐとらえられる。

ところが、事情を察知 した牧師は「燭台はこの方に差し上げたのです。それにもう一つお忘れです よ」と、さらに別の燭台をジャン・バルジャンに手渡す。

かつてあり得なかった愛の力に困惑しながら、彼は行方をくらましてしまう。そして十数年後、牧師の愛の力で立ち直ったジャン・バルジャンは、 今は努力の末、実業家となり、人望を得て市長となっている。このときの市長の背中をどのようにつくるか。

背筋をのばし、肩に少し力みを入れる。しなやかに伸びた腰つきは行動力と意思の強さを表す。背中をまっすぐにのばすのは私欲にとらわれないこと。肩の力みは責任の重さを表す。いわゆる「肩の荷が重い」というしこりである。

この堂々たるジャン・バルジャンの市長が、町なかで事故の場面に出くわす。ぬかるみの中で一人の男が馬車の下敷きになっている。車輪は重くて誰も持ち上げることができない。折しも通りかかったジャベル警視は「この車を持ち上げることのできる男はジャン・バルジャンしかいない」とつぶやく。

そのつぶやきを耳にしながら、市長はフロックコートを脱ぎ捨て、満身の力を込めて車輪を持ち上げる。こ のときの背中こそクライマックスである。市長の背中、腰から一転して、あの忌まわしいツーロン刑務所の ジャン・バルジャンの姿勢に戻るのだ。下敷きになった男を救い出した時の一瞬の背中。腰を内へ固め、憎悪をむき出しにして重労働に耐えた、あの背中が再現されるのである。

すぐさま市長の背中に戻しはしても、時すでに遅し。ジャベル警視は市長こそジャン・バルジャンだと直感してしまう。そして執拗な追跡劇が始まる。
ドラマは全身表現であるから、俳優は心と体の結びつきをしっかりと理解することが必要である。

そして、このジャン・バルジャンの例のように、背中の無言の表現が、舞台でどれほど大きな役割を担うかもご理解い ただけたと思う。
心身一如といわれるように、心の悩みは具体的に体にしこりとなって表れる。このことを発見したのは、高 校生の音楽授業を指導する中で、生徒の背中に表れる失恋のしこりを知ったことに始まった。

生徒の相談を、背中をほぐしながらカウンセリングするうちに、やがて体に表れる自己顕示欲のしこり、家庭不和のゆがみなどがわかるようになり、大人の相談も受けるようになって、肩の荷の重さや、恨み、人に対する気遣いなどのしこりの表れ方に確信を持つようになった。

同時にそのころ、脚本を書いたり、踊りの振り付けをしたりして、高校のミュージカル部や大人の劇団も指導に入っていたから、演技についても強い関心があった。

あるとき、演技指導の中で、体にしこりをつくると、そのしこりなりに確実に心が変化するということを体感した。この原理がわかると話は早い。自分で体のあちこちにしこりを作ってみて、そのしこりがどんな心を生むのか、じっと体の声に耳を傾けるだけで、心と体の結びつきが 次々とわかるのだから。

こうしてボディートークの体系は発声法や表現法の分野から進ん でいったが、内容をより掘り下げ、裾野を広げるほどに、人と人 の関係が体の問題であることが解明されてきてボディートーク人間関係法ができあがり、これらすべてが心と体の健康、すなわち自然体法と結びつくことになったのである。

ボディートークはその意味で、人生を生き生きと充実して活動できるようにするための土台となるものである。人類は四つ足動物から生存し生きて生活するための知恵の力によって直立歩行し、文明を築き上げてきた。そして今、知恵の力によって自らの心と体を健康にする方法を、生み出さなければならない宿命を持つ。ボディートークは生まれるべくして生まれた。21世紀への人類の知恵であると思う。




背中は人生を物語る

ジャン・バルジャンが牢獄を出たとき

背中は人生の地図である。その人の生き方がそのまま刻み込ま れている。従って背中のしこりやゆがみを見れば、その人がどの ように生きてきたかがわかる。
その意味で背中と心は一致しているから、逆に、例えば背中に 恨みのしこりを意識的に作ってみると人を恨む気持ちになる。 当然ながら声も恨みがましくなる。このことが演技表現の大切なポイ ントとなる。

ある時「レ・ミゼラブル」というミュージカルを観に行った。 ビクトル・ユゴー原作のジャン・バルジャンの物語である。

舞台は暗く、陰うつなツーロン刑務所から始まった。
極貧の中にも実直に暮らしてい たジャン・バルジャンが、家族のため一斤のパンを盗んで捕らえられ、二十年間も幽閉されていた牢獄である。その牢獄の門を前に、刑期を終えたジャン・バルジャンが布袋を背負って立っている。インパクトの強いオープニングである。

ところが俳優の演じる、このジャン・バルジャンが、どう見 てもジャン・バルジャンに見えない。何故かというと、背中をシャンと伸ばして堂々と立っている からである。これは刑期を終えた男の基本姿勢ではない。

演劇には各々個有の表現理念があるから、必ずしも私の言う通りに演じる必要はないが、ジャン ・バルジャンに関しては特に背中の表現が大きな意味を持つドラマだと思う。

そこでボディートーークの原理に従って、このドラマを表現するとどうなるか、皆さんも体を動か しながら体験していただきたい。
ジャン・バルジャンの基本姿勢は少なくとも3つある。1つは重労働の腰付きである。「あー疲 れた」と重い息を落とした時、それが肉体労働の疲れであり、犬が尻尾を巻き込んだような腰付きとなる。過酷な肉体労働が長年、来る日も来る日も続くと、腰を縮めたまま筋肉は硬くなって、 尻尾を巻いたような姿勢は固定される。

当然、背中は丸くなり、アゴを前へ突き出すことになる。2つめは憎悪の背中である。「史記」の著作で有名な司馬遷が牢獄で無念の最後を遂げた時、背中にコブが出たという話が残っているが、このコブは恨みのしこりである。肩甲骨の下部に表れる。

ジャン・バルジャンはたった一切れのパンを盗んだために20年間も牢獄に捕らえられたのであ る。当然世間を激しく憎んでいる。そして出獄の暁には大悪人になってやろうと密かに決意してい る。それだからこそ、ジャベル警視が初めから目を付けていたのだ。

憎悪のしこりを作るには背中の真ん中、胸椎8番の両側をウンと息を詰めて硬くする。従って憎悪に狂う人間の息は詰まっていてきゅうくつである。

基本姿勢の3つめは目付きだ。憎悪であっても、社会に対して正面から戦うのであれば、目付きも真っ直ぐであるが、ジャン・バルジャンは腹黒く、復讐してやろうと考えている。そのため世間を斜めに見ている。この気持ちになると、体は半身に構え、横目で相手をにらむようになる。

皆さんも立ち上がってこの3つの基本姿勢を試してみよう。まず骨盤を内へ傾けて、腰に力を入れ背中の中央を硬くして息を詰める。そして半身に構えて横目で前をにらむ。その姿勢で布袋 を肩にかける。これがジャン・バルジャンの出獄の時の姿勢である。

刑務所を後にしたジャン・バルジャンは、とある教会に一夜の宿を恐る恐る申し出る。にこやかに彼を迎え入れた牧師はどのような背中をしていたか。もちろんわだかまりのないスーッと伸びた背中である。

舞台での牧師は力みのない、真っ直ぐな姿勢で演じられていた。ところが主役のジャン・バルジャンも背を伸ばしスラッと立っていて、おまけにこちらの方がグンと背の高い俳優だから、あまりに堂々としていて、どちらが牧師の役なの か一瞬とまどってしまう。やはりスープをむさぼるようにして飲むジャン・バルジャンは、3つの基本姿勢で演じないと牧師との関係が表現できないのではないか。

さて、この背中がどのように変わり、やがてクライマックスでどのようなドンデン返しになるの と、それは次回で述べることにしよう。




お腹に問題あり

体に表れたサイン

つい先ほどまで元気だったのに、急に頭痛がしたり、おなかが痛くなったり、吐き気がしたり、気力が萎えてしまったりすることがある。原因がはっきりしていればともかく、何故そうなったのか、わけがわからない場合もよくある。

「病は気からというように、原因不明の場合は、心の 問題が体にシコリやユガミを生じさせているようだ。 1
K子さんは明るく元気な20代の女性である。弟子も多い中堅のピアニストである。そのK子さんがある日、体 調が悪くて個人レッスンを受けに来た。

彼女の訴えは、「起きると全身に悪寒が走り、何をする気力も出な い。幸い熱はない」すぐに病院へ行ったが原因はわからず風邪だろう、とのこと。しかし今まで経験したことのない体のふるえがあり、気が抜けてしまっていてとても不安だ。
ボディートークでは心と体の結びつきを調べる。全身に寒気がする場台は、たいてい腹に問題がある。

早速、仰向けに寝てもらっておなかに手を当ててみると、案の定、しっかりとシコリを作っている。K子さんの場合は胃の上部と下腹部左側をギュッと固くしていた。胃の上部のシコリは「いらたち」である。アセリの気持ちでイライラすると、この部位が硬くなる。

ちなみに「腹立ち」場合は胃全体が縮んで立ち上がったようになるし、 クヨクヨと思い煩うと胃の下部が硬くなる。また下腹部左側は「悔恨」のシコリである』K子さんのは、出来立てホヤホヤの「激しい後悔」の硬さであった。
「K子さん、昨日、何か大失敗していませんか?」と私が聞くと、K子さんはハッと して、「そうなんです」と息せき切ってしゃべり始めた。

彼女はピアノの教え子の結婚式に招待されていて、式は明日の1月15日(祝日)
と思い込んでいた。それで昨日の1月13日(日曜日)にパーティー・ドレスを準備していたところ、母親が「ちょっと変よ」と言いだした」15日は祝日とはいえ、仏滅である。普通は結婚式は行わないのではないか、という判断である。

K子さんはあわてて招待状を確かめてみると、やはり式は13日であった」手帳に写す時にうっかり15日と書き込んだようだ。勘違いと気付いた時は、折しも披露宴が行わ れている時刻であった。しかし今から出発していてはとうてい間に合わない。

どう言い訳したものか、K子さんはなすすべなく、悶々として、その夜、床に就いた。 そして翌朝、原因不明の激しい悪寒という症状となった。
話を聞きながら、私はK子さんのおなかを軽く揺すりながらほぐした。おなかを硬くしたた原因である心の問題を指摘しながら、その部位をほぐすと、シコリは消えていく。

やがてK子さんのおなかが柔らかくなるにつれて、手の先や足がポカポカしてきた。 息もゆったりとしていつもの笑顔が戻ってきた。そうなると失敗への対応策も浮かぼうというもので ある。「正直にわけを話して、もう一度お祝いの品を 奮発することにします」とK子さんは晴々として帰っ ていった。

体の問題を心が納得すると不安は消える。ところが、 体の痛みや不調と心の悩みの直接的なつながりを理解していない人は、原因不明の症状に右往左往することになる。

心に生じたイメージは必ず体に表れる。したがって 体に表れたサインから、逆に心の悩みを知ることも可能なのだ。ご自身も肩がピリッと痛くなって初めて、「あっ、今度の仕事は随分プレッシャーが る、かっているのだな」とわかることもある。
「肩の荷が重い』というのは、心にとっても 体にとっても同じ問題なのである。




タコ踊りで人に任せよう

手を下から差し出す人は、相手に対して優位に立とうとしている。あなたの面倒は私が見ましょう、という意味だ。リードは任せなさい、 という無言のメッセージでもある。

人に対してよく気のまわる世話役タイプの人は必ず下 から手を差し出す。世話をする習性が身に付いているの だ。
こういう人は何かの集まりがあっても、すぐ机やいすを準備したり、お茶を入れたりする。有り難い存在だが、時には面倒の見過ぎでわずらわしいこともある。

手を上から差し出す人は、あなたに従いましょう、という意思表示である。リードはあなたに委せましたよ、という意味である。
何でも人にやってもらって、それでいて憎めない人がいる。甘え上手で、かつて述べ た<ウムネ>の柔らかい人である。こういう人は必ず手を上から差し出す。
会合であっても、人が準備するのをニコニコして見ている。お茶を出されたら「あり がとう」とすかさず感謝の言葉が出る。それでついつい人は世話をしてしまう。

二人で手を差し出した時に、同時に下、あるいは同時に上ということもある。この場 合は差し手争いがある。勝負は一瞬にして決まるが、自分の差し手を取った方が、我欲が強かった人である。
勝負がつかなかった時はどうなるか。互いに右手が上、左手が下のように、チグハグ に握り合う。でも、このケースはめったにお目にかからない。

「タコ踊り」は手を下から取っている人が相手の両腕を振ってあげる。振ってもらう人は「アー」と柔らかく、小さな声を出し続ける。肩や肘が脱力していると、両腕は自由自在に動かせるので、まるでタコの足のように柔らかくしなやかだ。そして振ってあげている人が手を離すと、相手の両腕は重くス トンと落下する。

腕に力の入る人は、持ってあげると軽く感じる。本人が自分で腕を持ち上げているからだ。こういう人は手を離しても、腕はそのまま持ち上がっている。気遣いの激しい人は肩に力が入っている。そういう人の両腕を振ってあげると、自分で腕を動かしてしまう。本人はそんなつもりはないのに、無意識の中で、相手に悪いと思って自分で動かしてしまうのだ。

一事が万事、その調子だから、人の中で緊張し続け、 家に帰るとドッと疲労感が押し寄せてくる。「タコ踊 り」で自分の習性に気付き、脱力ができるようになる と、人に気持ちよく身を委ねることができるようになる。

一人に仕事を頼んでおきながら、任せきることができなくて、始終イライラとその進行状況を気にしている人がいる。そういう人も肩に力が入っている。

ところが「タコ踊り」で脱力の感覚がわかってくると、人に仕事を任せられる心境が生まれてくる。体の感覚は精神構造でもあるのだ。
さらに肘に力の入る人は意地っ張りである。頑固一徹、自分の主張を曲げない人は 腕を振ってあげようにも、固くて動かしようが ない。そういう人は両手をダランと降ろしてもも らって、片手ずつ、下からブラブラと振ってい く。力が抜けるほどに次第に上へ持ち上げて動かすといい。肩肘張っては、とかくこの世は住みにくい。




「好きよ」の声に外息と内息がある

人間の社会には本音と建前がある。人は言葉で意志を伝達するから、会話は言語によって成立すると思 われがちだ。しかし実際には言語的要素もさることなが ら、非言語部分のコミュニケーションの要素の方がむし ろ大きいと言っていいだろう。

そして言葉は建前を表現
本音はその言葉を発した息に表れる。言葉という建前と息、すなわち声という本音と言葉が一致がしていれば素直な表現であるし、 建前と本音とが別々の時には、色々な問題が生じる。

例えば「ありがとうご ざいます」と言ったとし よう。立て前は感謝の意であるから、本当に感謝していれば息は暖かくなる。 すなわち暖息でこの言葉が発せられたら、本人は 心から有り難く思っているのだ。 ところがこの言葉が冷たい息で言われたとしよう。 すると本音としては相手を拒否しているのだから、建 前でお礼を言っても本心はちっとも感謝していない。

よくある例だが、お店を入る時などに「いらっしゃいませ」と丁寧にあいさつでされる。暖息で言われると客としては嬉しく感じるが、冷息だと、なんだ歓迎され ていないな、と直感して嫌な感じになる。いんぎん無礼とは、言葉遣いは丁寧だが声が冷たいことを言うのである。

接客マナーを徹底させようとして、「ハイ、かしこまりました」とか「まことに申し訳ございません」とか朝礼などで大声で練習いる会社をよく見かけるが、本音の息に留意しないと言葉だけがツルツルと出て、 声は誠意のない単なる掛け声となりがちだ。

そんな声で、実際に客とのやり取りで店員はマニュアル通りに行っているの に「態度が悪い」と客に納得してもらえない。本音の息は無意識のうちに相手に伝 わるから、トラブルの原因は声の冷たさにある。
正に本音の息によってその本意を判断しなければならない。こういう作業を我々は 無意識の中で何となく行っているが、息の見方をマスターすれば相手の本心をさら によく理解することができる。

「あなたが好きよ!」と告白されたとしよう。この場合は本音の息が外息 であるか内息であるのかを注意しなければいけない。外息とは前回述べたように、声が「オーイ」と外へ向かって出ていく時の呼吸の 仕方であり、内息とは自分に向かって「オイ」と呼びかける時の息のあり方である。 内息の場合はミゾオチを中心に呼吸筋が縮むから、逆にミゾオチを指で押さえて、 その位置に息が集まるように発声すれば内息となる。そして「好き!」という声が外息であれば、ほんの軽い好意の表明であるし、内 息で告白されれば、深く心に感じて言っているのであるから、愛が芽生えているの′である。

「好き!」という言葉はもちろん暖息であること が前提であって、その内息が熱ければ熱いほど愛す る気持ちは深い。もしもこの言葉が冷息で発せられたら、「あなたのこと大嫌い!」という憎しみ の表現である、と悟らなければならない。

もう一例述べよう。妙に声が高い調子でペラペラ しゃべる場面に出会ったら、それは本当のことを必死になって押さえ込もうとする息である。心の奥に
湧き起こる感情が本音なのであるが、それを隠そう とすると、息を押し殺すのにエネルギーが要る。そのエネルギーが声を高くするの である。

猫なで声もその典型である。本当は別の強 い欲求があるのに、それを覚られないように 相手のご機嫌をとる時の声である。上品ぶった女性達の会話が妙に高くなるのは、その辺の事情もあるのだ。




もちつ もたれつの 背中ほぐし

疲労したりすると硬くウソの健康体となる。体が硬いか柔らかいか、どうやって判断するか。それは お餅の柔らかさを調べるのと同じこと、さわってみればわかる。さわって固ければ硬い体。さわって柔らかければ柔らかい体である。

人間でもっとも軟らかい体は生まれたば かりの赤ん坊だ。つきたてのお餅みたいにホカホカとあったかい。反対に、もっとも硬いのは死後、数時間たっ て硬直した体である。ゾッとするほど冷たくて、まるで永の塊のようだ。

本来、人間の体は生きている限り、他の哺乳動物と同様 にしなやかで軟らかいものである。その体が緊張したり、疲労したりすると硬くなる。心の悩みや苦労あるいはショックを受けて背中がたちまちしこったり、ゆがんだりした経験は誰もが持っているはずだ。

たしかに犬や猫も緊張や疲労から体を硬くするが、彼らはその度にノビをしたり胴ぶるいをする。自らこわばりをほぐし、ちょっと休んですぐに元 通りの元気な体に戻してしまうのだ。

このように、疲れてもすぐに元の軟らかい体に戻るのが「自然体」である。コンニャクのように柔らかくしかも弾力があるから、別名「コンニャク体」ともいう。ちなみに、体は軟らかければそれだけで良いというものではない。張りもなくてはならない。 気力が充実していれば張りがあるものだが、気力が萎えるとフニャフニャになる。私は このような体を「トウフ体」と呼んでいる。

さて、忙しい日々を自然体で過ごすことができれば理想的だが、現代の文明社会では 過度の緊張を連続して強いられるために、体が自然体に戻らなくなってしまう人が増えてきた。このような人は慢性的な筋肉の収縮状態にあって、私はこの体を「疲労体」と名付けている。

「おれは肩こりなどしたことがない」と威張っている人がいるが、そういう人の肩をさわってみると意外にカチカチであることが多い。実はしっかりと肩が凝っているのだ。
肩こりを痛いと感じる段階をとっくに越してしまって、もう鈍感になっているだけなのだ。

子供は痛みに対して敏感である。体が軟らかいからだ。子供より少々硬くなった我々大人の体でも疲労体の初期には、肩こりや頭痛などの痛みの自覚症状はちゃんとある。 ところが体がさらに硬くなると痛みも感じなくなり、風邪などの軽い症状も出なくなるために、自分は健康だと錯覚してしまう。風邪もひかない体というのは実は鈍い体なのだ。

疲労体でありながら、一見元気そうに見えるこのタイプの人は、責任感が人一倍強 かったり、自ら叱咤激励して気力だけで身を保っていたりする人だ。過度の疲労から体がコチコチになっているにもかかわらず、自らのガンバリだけで押し通しているので、 「ガンバリ体」と名付けた。そしてこのガンバリ体こそ「ウソの健康体」なのである。

働き盛りの企業戦士や責任の重い中間管理職、経営トップを不意に襲う、いわゆる突然死はガンバリ体から起こる。突然死が就寝中や入浴 中、あるいは食事中に多く発生するのは何故か。極度のガンバリ体で体の硬直も生命の限界点に達しているのに、かろうじて気力で保っている。その体が、自宅 に帰ってホッとした時に気持ちが緩んで体を保たせることができなくなるからだ。

ガンバリ体の人はさわればわかる。石頭や石体は突然死の可能性がある。そういう人はまず背中をほぐすことから始めよう。職場でもできる簡単な背中ほぐしは、二人で行う「背中たたき」だ。

一人が両手をダランと降ろして「アー」と低く長く発声する。もう一方の人が、その人の背骨の両側を、肩から腰へ向かって軽くトントンと叩いてあげる。声が固く響く個所がしこりの ある位置。そういう場所を念入りにたたく。た たいてもらって気持ちよくなった人は交代して お返しをしよう。持ちつ持たれつでこの世はうま くいっているのだから。