ボディートークコラム

表現は自発的に

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歌にせよ踊りにせよ、あるいはそれ以前の日常での自己表現にせよ、およそ表現するということ は、本来、自発的に行われるものです。強要されてシブシブ行うのでは、内からの生命の輝きは出てきません。 中国で雑技団を見ました。いわゆるサーカスで す。

その中でも犬のショーは楽しめました。数十 匹の犬たちが所狭しとスベリ台やシーソーを駆け 巡り、高い踏み台を次々と飛び越えてハラハラと させてくれます。指図する人は、犬が思い通りに 動いてくれないので、右往左往してオロオロしています。もちろん、そういう演出なのですが、そ れにしても犬たちはこの演技を楽しんでいます。 だから活き活きと走り回っています。そのスピ ードには爽快感がありました。

いけなかったのがパンダです。首にクサリをつけて、係員が笹を食べさせながら演技をさせるのですが、グルグルと回ったり、細い板の上を歩く位のことです。それをクサリに引っ張られながらノッソリと演じるので、見ていても心が弾んで来ません。どう見てもパ ンダは嫌がっているとしか思えないのです。その意味で無理矢理させられる演技は表現活動とは言えないのではないでしょうか。

人間にも同じようなことがありますね。例えば、レクリェーションの罰ゲームと 称して歌をうたわせるのも、そのひとつ。人前で歌うなんて恥ずかしいっ!と思う 日本人だからこそ罰になるのでしょう。でも嫌々歌っている人の声を、あなたは聞 いていて楽しいですか?

表現は自発的なエネルギーから生まれるものです。生命を自ら弾ませて積極的に 行うものです。それと反対の私の苦い音楽経験をお話ししましょう。
音楽大学でバイオリンの勉強をしていた頃です。先生から「君の音程は四分の一 音、低くなっている」と、よく指摘されました。自分でも確かに音程を少し低くとるクセがあるな、と思っていましたが、なかなか直りません。

歌う時は、自分でもどうしたものかと思案していました。。そして卒業する頃に なってハッと思い当たったのです。

子供時代のバイオリン練習が原因だと気付いたのです。小学校へ入学して、父親 からのバイオリン教育が始まったのですが、毎朝たたき起こされて通学前の練習で す。厳格な父親でしたから、スリッパ片手に教えます。少しでも間違えると、 お尻にスリッパがパシッと飛んできます。それが嫌で嫌で仕方がありませんでし た。

トイレに逃げ込んだり、縁の下に隠れたりと、あの手この手でサボっていたのですが、父親もほとほと手をやいて、私をバイオリニストに育てようという夢を6 年間であきらめてしまいました。

やがて、京大の法学部に入り、三回生になって進路を決める時、やっぱり音楽家 になろうと、音楽大学を目指したのです。音楽と名のつくものなら何でも良かったのですが、バイオリンが一番手近だったので、バイオリンをもう一度勉強し直して、 バイオリン科に籍を置きました。

そのような訳でしたので、バイオリンを持つと体の無意識の中に強い防衛反応が あったのでしょうね。楽器にスッと馴染まないのです。特に首筋を固くするので、耳の神経も解放されません。心を重くしているのものだ から音程のとり方も低目になるのです。

やる気のない行動は遅めになったり、適確さを欠いたりするものです。 私のバイオリン演奏の根底には子供時代の拒否反応が潜んでいる、と気付いたのです。
原因が解明できれば道は開かれてきます。

鏡を四方に置いて演奏の姿勢を細かくチェックし、体をやわらかくして一音一音を心の底に染み通る感覚の練習を始めまし た。そして卒業演奏の曲目には、演奏したくてウズウズしていたブラームスのバイ オリン・ソナタ二番を選びました。

体も心も素直に音楽に集中できるようになって、やっと私は幸福感に浸りながら バイオリン演奏に熱中するようになりました。ボディートークの自由表現法の始まりです。もちろん、四分の一音の狂いも自然に消えていきました。

心に抵抗のあることは、行動の端々に表現のひずみとなって表れます。だから自 然で、素直で、豊かな表現をするためには、まず心や体をスッキリさせておく必要があります。

そのためにボディートークでは表現の前に『心身一如の体ほぐし』を して、日常に溜め込んだ毒を抜くことにしています。

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